星置9条の会の歩み

   
2005年3月5日  設立
 

               ジャン=ポール・サルトル

                     1905年6月21日~1980年4月15日

         
人間は、自らの行動の中で、自らを定義する。

       人間は現在もっているものの総和ではなく、彼がまだもっていないもの、
       これからもちうるものの合計である



 



        星置9条の会 

            2019・12・10  火曜日

    「望年会」

   さすが亥年、何かと騒がしい1年でした。
  春の一斉地方選挙、参議院選挙、次々と暴露される安倍暴走政治の実態。
  天皇即位利用の国民目くらまし報道等々。
  そんな情勢の中、9条の会や様々な団体の活動が、平和を守った1年でした。
  平和を語り合う「望年会」を企画しましたので是非ご参加ください。
  例年と趣向を変え、学習無しで下記にて行います(語り、飲んで、4時間)


        星置9条の会代表   福盛田 勉

       会場 「すたみな太郎」手稲店   焼肉・寿司バイキングのお店

     



   呼び掛け人(
    塩谷昭子、福盛田恵美子、村上テル子、小坂亨子、伊藤史子、吉原 宏、島田敦子、山本 正、山本 恵、
    阿部祐二、垂石 豊、作田信子、大阪喜美男、佐藤哲男、丹保輝男、中本雪人。




     ていね9条の会

 第2回学習会 「音楽と講演の集い」

      2019年・夏

 

人とともに生きる

他者とともに、

 他者のために、

   ~多様な恵みのもとに~

 

 

 

  日時  8月4日(日)  午後2時~4時

  処   手稲区民センター第1・2会議室

  講演 「憲法九条と天皇制」

       講師  稲生義裕・札幌豊平教会牧師

  資料代      500円

  

 

 主催   ていね「九条の会」連絡会

 

 

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

 

  ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

  社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

  彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

  そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

    マルティン・ニーメラー(1892~1984)

   ドイツのルター派牧師であり反ナチ運動組織「告白教会」の指導者。

  フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラーは、ドイツの福音主義神学者、古プロイセン
  合同福音主義教会、ヘッセン=ナッサウ福音主義教会(ルター派)の牧師、反ナチ運動家。ナチスの弾圧とそれ
  に対する抵抗運動を描いた詩
『彼らが最初共産主義者を攻撃した時』の作者。マルチン・ニーメラーとも。

 

  ていね九条の会

第2回学習会  音楽と講演のつどい

 

    プログラム

  司会   福盛田恵美子

  1 「憲法9条五月ばれ」 合唱

  2  開会の挨拶  福盛田勉(星置9条の会・代表)

  3  講演「人とともに生きる」

   ―--憲法九条と天皇制――

     講師:稲生義裕(札幌豊平教会牧師)

  4  フロアトーク(質疑応答)

  5  アトラクション「午後の音楽」  村上テル子・山本恵 

  6  閉会の挨拶         

 関連資料

〇  代表挨拶文

〇キリスト者の視点=「体制の欺瞞と本質」

「ヤスクニ・社会問題委員会ニュース」・「札幌豊平教会だより」からの抜粋。

 稲生義裕牧師

日本キリスト教会札幌豊平教会
住所:北海道札幌市豊平区豊平63丁目5-15
電話:011-811-6838
教会HPhttps://www.ccjtoyohira.com/
集会案内
・主日礼拝 毎日曜日 午前101011:20
・祈り会 毎水曜日 午前10301130、午後630730
※他にも金曜カフェ、土曜天使食堂などがあります。

 

講師プロフィール:1950年東京に生まれる。

プロテスタント・キリスト教会の牧師として、東京・静岡・北海道の教会にて40年近く
を過ごしている。現在は、日本キリスト教会札幌豊平教会の牧師。「ストップ戦争法・
豊平区民の会」「安保法制に反対する宗教者連絡会」などに参加。

札幌豊平教会は、北星学園創始者サラ・スミスによって1906年頃に始められた日曜学校
に源を持つ。戦後50年を機に、戦争に抗せず、むしろこれを支えた教会の歴史を省みて、
平和の礎となる決意を表明。現在、地域の「九条の会」とも交流を持ちつつ、ホームレス・
生活困窮者と共に歩む食堂を毎週開くなど、『他者と共に、他者のために』生きる教会の
姿を模索している。

 

午後の音楽

「グスタフ・マーラー追想」

ピエ・イエス

    慈愛深いイエスよ

 

 村上テル子・山本恵

 

開会のあいさつ

 

 本日は何かとお忙しい中、ご参加いただきありがとうございます。

 手稲区内には少なくない「九条の会」があり、それぞれ、地道に活動をしています。昨年、手稲区全体での企画・
 活動をしてみないかということで「ていね九条の会連絡会」が発足、第1回学習会を本日と同じ会場で開催しました。
  年に最低1回の企画ということで、第2回学習会を札幌豊平教会牧師の稲生(いのう)(よし)(ひろ)氏を講師に
 お招きして開催することになりました。

  主催は「連絡会」ですが、責任幹事は参加団体持ち回で「星置9条の会」が今年の当番です。星置らしい企画・運営
 ということで、本日の内容となっています。

星置9条の会は2004年(平成16年)6月10日全国九条の会発足の翌年、2005年3月5日に設立総会を開催。
 以後、年に2回から3回の企画を継続して、今年3月には第41回交流会を開催しました。

毎年12月の「みんなで平和を語り合う望年会」は会継続の力になっています。設立当時からの中心的「呼びかけ人」
5名が鬼籍に入りましたが、先人の遺志をついで、微力ではありますが平和の灯を消さぬよう活動しています。

星置では、座学だけでなく、毎回必ず文化講演(フルート・オカリナ・ハーモニカ・ギター演奏や詩・小説の朗読等)と
 憲法9条の朗読、「憲法9条五月晴れ」の合唱をプログラムとして開催してきました。本日の学習会は「星置方式」とし
て、盛沢山ですがお楽しみいただければ幸いです。以上、開会の挨拶といたします。

 

      2019年8月4日・日曜日

ていね九条の会連絡会幹事

(星置9条の会代表 福盛田勉)

 

 

    

 

 

 

 

キリスト者の視点

  「体制の欺瞞と本質」

札幌豊平教会2017年平和集会・講演

     「国家主義に抗する道」

     札幌琴似教会  久野真一郎牧師

  ディートリッヒ・ボンヘッファーは、1906年ドイツのプレスラウで8人兄弟の6番目として生まれました。
  父は精神医学の医師で、のちベルリン大学の教授になりますが、一家は法曹界で活躍する人が多く、彼だけが神学
  に志します。

    福音主義領邦教会の全国統一とユダヤ人排斥を方針に掲げるドイツ的キリスト者運動が、ナチス政権に迎合して
  勢力を拡大する動きに、彼は神学者として「指導者が誤導者となる危険性」を指摘、さらにナチス政権の本質を見
  抜いて教会に国家主義に抗する行動を促しますが、その発言に耳を傾ける人は少なく、あまつさえユダヤ人排斥を
  容認する牧師や神学者の存在に失望してイギリスへ向かいます。

   1943年4月、義兄夫妻の逮捕に関わって彼も逮捕されますが、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件で、兄
  が逮捕されたことから、その方の容疑が主になって強制収容所に収監されます。フロッセンビュルグ強制収容所へ
  移送されたその日の夜の裁判で死刑を言い渡され、翌9日の朝絞首台に上りました。ヒトラー自殺の3週間前、ナチ
  スドイツ崩壊1カ月前のことです。(札幌豊平教会だより・2018年2月18日)

 

  2018ヤスクニ・社会問題委員会  公開学習会

     ~「象徴」天皇制を考える~

    講師:吉馴明子氏  恵泉女学園大学名誉教授

 被災地で膝をついて被災者と触れる明仁天皇の姿は、国民に寄り添い、心を交わし得る国民統合の象徴である天皇の姿
 を現すと言える。この在り方の、模索と努力のかなたには儒教的な聖人政治を見ることが出来、しかも聖人は、表面的
 な経済発展と対外危機を宣伝する政治の現状を、忙しい公務のベールで覆い、「美しい日本」という幻想を国民に与え
 る助けとなってはいないだろうか。質疑応答の最後に、加藤正勝牧師の言葉がありました。「被災者に優しく微笑み、
 膝をついて寄り添うその顔の裏にあるものを見逃してはならない」。或る方が言いました。「昭和天皇は紛れもなく侵
 略戦争の犯罪者=戦争責任者でしたが、平成天皇の存在と問題点はかなり複雑になり、深刻な問題を孕んでおり、その
 体制的・政治的・文化的な役割が極めて見えにくくなっています。彼らはボランティア活動ではなく、あくまでも天皇
 としての上からの立場の慰問訪問です。勿論そこには『大衆的な天皇・民主的な天皇・国民に寄り添う天皇・優しい天
 皇等々』のイメージ作りもあるだろうし、『有難い存在』としての、誰にも疑問を疑わせない、天皇制定着という目的
 が存在します。

 

       第37回政教分離を守る北海道集会

    『憲法と信教の自由、政教分離』

      講師:木村草太氏   首都大学東京教授

 「国家と宗教の関係」

  ①国家が宗教を利用し、介入するインセンティブと②宗教が国家を利用しようとするインセンティブの両面がある。
 (※インセンティブ=意欲向上や目的達成のための刺激策、内的欲求を刺激し引き出す誘因)国家が戦争において
 靖国神社(宗教)を利用した歴史的事実から目をそらしてはいけない。こうした中で、個人の信教の自由を確保する
 ためには、憲法で信教の自由を保障し、国家が宗教を利用することをならない。

潜入レポート(2018・6・5)

「北海道護国神社慰霊大祭」

             加藤正勝牧師

それから玉串の奉納が奉納者の名が呼び上げられるなか延々と続く。遺族会関係者は当然のことながら、次は陸上自衛
隊北部方面総監、第二師団長、衆議院議員、全国護国神社会、神道政治連盟、道議会議員、日本会議、各町村長、そして
生長の家、立正佼成会、キリストの幕屋という宗教団体。

 一体、これは何か。もう説明するまでもないだろう。政教癒着の生々しい実態が毎年ここで繰り広げられているのだ。
戦没者を「英霊」とし、天皇、神社庁、自衛隊、行政関係、現政権を下支えしている日本会議関係団体へと末広がりをみ
せる姿を目の当たりにすることができる。以下私見。

 近現代の歴史をどのような視点でとらえるのか。ここには、「開拓」の苦労と犠牲になったものたちの歴史、明治以降
の近代戦争犠牲者としての栄誉は物語られても先住民族アイヌの存在、侵略していった相手側の朝鮮・中国はじめアジア
の幾多の民衆の存在は視野から全く消えている。

「天皇の靖国神社参拝(親拝)について」

      井上 豊  広島長束教会牧師

2018年6月、靖国神社の小堀邦夫宮司の以下の発言が大きな問題となりました。小堀氏はその後宮内庁に謝罪して、
退任しました。

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん?どこを慰霊の旅で訪れよ
うが、そこに神霊(みたま)はないだろう?遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表
することが重要やと言っているの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしているんだよ。わかるか?」

天皇の参拝があっての靖国神社ですから、参拝がなければ存在意義が問われかねません。

 

  韓国日本大使館前の水曜デモ集会に参加して

      比嘉美恵子  沖縄伝道所

明仁天皇が沖縄に何度も足を運んでいますが、「慰霊」しかしておりません。「慰霊」行為は無責任です。むしろ韓国・
朝鮮と同じように、沖縄の私たちに「謝罪」すべきではないかと思います。沖縄戦の最高責任者である裕仁天皇の罪責を
引き継いでいるからです。そうでなければ、本当の「和解」は起こらないでしょう。

 韓国政府が苦痛を与えた日本に対して、最も近い隣国らしく真実の反省と和解をもって共に未来へ進んでいくことを求め
ているように、沖縄も独立に向かうことから真の意味の独立を日本に促し、沖縄と韓国が日本を挟み撃ちにして、本当の和
解に持ち込んで行くことを願っております。私たちは韓国の皆さんと共に闘います。

沖縄と天皇」・・沖縄の終戦記念日を迎えて・・

   川越 弘  沖縄伝道所牧師

1879(明治12)年、琉球が処分(帝国日本に強制植民地所属)されて以来、沖縄の人々は、天皇の臣民になじまない
「琉球属民」として、蔑みの中で皇民化教育をされて来ました。

 沖縄戦の結果、日本軍94000人、アメリカ軍12500人が戦死し、軍人・軍属に徴用された沖縄の青年28200人
のほか、非戦闘員である女性・子供・老人の94000人が戦死しました。その中には日本軍が沖縄住民を殺害した数は27
1人(161件・泣くと敵に知られる理由で射殺された幼児を含む)、日本軍による壕追い出し109件(被害者200人~
300人、行方不明者83人)。「鬼畜米英に殺されるより、天皇のために死ぬことが崇高な生き方」と思い込ませられ、軍
命令によって強制的集団自決した死者814人(33件)。日本軍による朝鮮人殺害107人(21件)、重病患者の理由で
手榴弾や薬品で処置(殺害)させられた者5000人~6000人、マラリヤで死んだ者4348人がいるのです。

 戦後、裕仁天皇は、沖縄の土地を米国に基地として提供するメッセージを送り、自ら日米安保条約・日米地位協定の基礎をつ
くりました。連合国(極東委員会)から天皇制を擁護する目的があったからです。米国も極東における自国のプレゼンスのため
に有益とし、こうして対米従属国日本になったのです。明仁天皇は皇位継承する時、裕仁天皇の意思を継承しました。これまで
何度も沖縄を訪問して「痛切な気持ちを表す」ことで戦争の責任を取った表現をして、戦後を終結しようとしていますが、「追
悼」をしても一度も「謝罪」はしておりません。徳仁天皇になっても、この国の最大の戦争責任は天皇に継承されております。
沖縄から天皇を視る時、これらのことをいつも身近に覚えていなくてはならないのです。

 

 

 

ていね9条の会(加盟団体)

  新発寒9条の会、星置9条の会、鉄北9条の会、前田9条の会、稲山9条の会、

  稲積9条の会、手稲本町9条の会、稲穂・金山、曙・山口、富丘、西宮の沢、

  医療9条の会、新婦人、年金者組合、機関紙印刷、平和っていいね手稲区民の会、

 文化社九条。

 

        第2回学習会・当番幹事

     星置9条の会    代表 福盛田 勉

      連絡先   685-6763

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「多数者が一者に隷従する不思議」

  ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどと
  いうことがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである。その者の力は人々
  がみずから与えている力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みなが
  それを好んで堪え忍んでいるからにほかならない。その者に反抗するよりも苦しめられることを望む
  のでないかぎり、その者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。

 

 

 

「自発的隷従論」

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ
西谷修監修・山上浩嗣 訳
  付論
「服従と自由についての省察」シモーヌ・ヴェイユ
「自由、災難、名づけえぬ存在」ピエール・クラストル
解説・不易の書『自発的隷従論』についてー西谷修
     筑摩文庫定価1200円

 

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530~1563)は、フランスの裁判官、人文主義者。1554年ボルドー
 の高等法院に評定官として着任、のち同僚のミシェル・ド・モンテーニュと生涯の友となる。

 モンテーニュの『エセー』第一巻の第28章「友情について」はボエシに捧げられたものである。
 この友情をモンテーニュは「それは彼であり、私であったから」と書いた。

 



     「お報せ」  2019・7・23


    ていね九条の会 

         第2回学習会 音楽と講演

 

人とともに生きる

― 憲法九条と天皇制 ―

 

「第9条を守り抜き、平和を未来に」。この願いを基に、憲法にみなぎる苦渋と熱き血潮、

その骨格、隠された神経組織を解析する試みをご一緒に。憲法に表された“象徴天皇”と

いうあいまいな表現、人権を持たない天皇存在の不思議、東アジアに生きる私の立ち位置。

一人の市民・一人のキリスト教者として、平和憲法をめぐる対話の糸口をここに…。

 

講師:稲生(いのう)(よし)(ひろ)(札幌豊平教会牧師) 

 

講師プロフィール:1950年東京に生まれる。

プロテスタント・キリスト教会の牧師として、東京・静岡・北海道の教会にて 40年近くを過ごしている。
現在は、日本キリスト教会札幌豊平教会の牧師。「ストップ戦争法・豊平区民の会」「安保法制に反対す
る宗教者連絡会」などに参加。

札幌豊平教会は、北星学園創始者サラ・スミスによって1906年頃に始められた日曜学校に源を持つ。戦後
50年を機に、戦争に抗せず、むしろこれを支えた教会の歴史を省みて、平和の礎となる決意を表明。現在、
地域の「九条の会」とも交流を持ちつつ、ホームレス・生活困窮者と共に歩む食堂を毎週開くなど、『他者と共
に、他者のために』生きる教会の姿を模索している。・

 

アトラクション; 独唱:阿部順子 演奏:村上テル子

 

 

 

日 時:201984日(日曜日)14時~16

会 場:手稲区民センター第12会議室

参加券:500円(各九条の会で扱っています)当日券有。

主 催:ていね「九条の会」連絡会

連絡先:福盛田勉(星置9条の会)011-685-6763 

 

 


 
   NO 1

星置9条の会

第41回交流会

講演と文化を語るつどい

 

 

 

「講演」

金山鉱山と

朝鮮人強制連行

講師小松 豊 氏

  札幌郷土を掘る会・代表

  平和憲法草の根普及会

 

 

 

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」

第二次世界大戦終了40周年の1985年5月、「荒野の40年」と題した議会演説より。     ワイツゼッカー元独大統領

 

2019年3月17日・日曜日

午後2時~4時

星置地区センター

参加費 500円

 

主催 星置9条の会

 

 

 

 

          憲法9条

 (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の
 発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決
 する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸
 海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

  

 
     NO 2

      星置9条の会

    第41回「講演と文化のつどい」

プログラム

   1 司会  福盛田恵美子   受付 塩谷 昭子

   2 開会の挨拶     垂石 豊

   3 憲法9条・朗読   中本雪人

   4 オカリナ演奏    山本 正(3曲)

   5 講演 「金山鉱山と朝鮮人強制連行」

       講師 小松 豊 氏

         札幌郷土を掘る会・代表

         平和憲法草の根普及会

   6 フロアトーク 進行  福盛田恵美子

   7 合唱・「憲法9条五月晴れ」  塩谷昭子

      8 事務局からのご案内      福盛田 勉

   9 閉会の挨拶          吉原 宏

―――――――――――――――――――――――

  ホロコースト記念館にも展示されている、政治学者ローレンス・ブリット氏による「ファシズム(
   独裁恐怖政治)の14の初期兆候」

 

   「関連資料」

   1 「はじめに」 「沼田流人の小説『血の呻き』」

   2 「小松豊氏のプロフィール」

   3 インタビュー記事(しんぶん・赤旗) 「責任者を処罰せよ」

    4 朝鮮人徴用工問題をどうみる

      山田 朗 明治大学教授

    5 「3・1記念演説・全文」文在寅大統領

    6 「時評」 1・2・3

    7 「日本と朝鮮・海峡幻想」

    8 アリラン


 
    NO 3

――― はじめに ―――

小松豊氏と「札幌郷土を掘る会」

位置図

位置図

 

  手稲区に金山鉱山というものがあったことは何年も前から知っていました。そこで強制連行された朝鮮人
  が働かされていたということも知っていました。
   
鉱山は星置からは国道5号線を乗り越えてルカ病院からまだ先の山側にある地域ですが、その鉱山跡地は
  今は自由に見学することはできません。3年ほど前まではネットでも「手稲鉱山」もしくは「金山鉱山」で
  検索すれば、強制連行の問題も含めて多くの情報が公開されていたのですが、今はなぜかそうした情報は抹
  消されて、完全に封印されています。ここでも例によって、在ったことが無かったことにされるという隠蔽
  の検閲がなされているということでしょうか。

   例えば、手稲区市民部総務企画課の作成するホームペイジを開いて見ますと、「手稲山は、かつて金銀銅な
   どが採れる鉱山として、活気にあふれていました。最盛期には手稲の人口の約4分の1が、鉱山周辺に集まり、鉱山村
   といわれるほどでした。産金量全国2位を誇った時期もあり、手稲鉱山は、手稲だけでなく、わが国の発展をも支えてい
   たのです。」と妙に明るい色調の説明文で始るのですが、そこには民衆史や労働史といった視点はなく、一産業につい
   ての観光的叙述に徹して極めて表層的というか、歴史を掘り起こすという姿勢はまったくありません。要約すれば、次の
   ようなものです。

  明治の中頃、農業をしていた鳥谷部弥平治という人が偶然に金鉱脈を発見したという日本昔話風の挿話から始まり、
  その後、大正に入り元道庁の技師・石川貞治が鉱業権を取得したが資金難で閉山に追い込まれ、鉱業権は転々とし昭
  和3年に広瀬省三郎が経営権を握り、昭和10年(1935年)に三菱鉱業が広瀬と共同経営の契約を結び、本格的に参入
  する。昭和29年(1954年)、経営権は荒川鉱業に移り、昭和32年(1957年)には千歳鉱業が経営に乗り出し、昭和46
  年(1971年)、完全閉山となり、約80年にわたった歴史を閉じました。

   以上のものは地域の一産業の経営権の譲渡についての記録であって、つまり産業報告紙以上のものではありません。「紙」はカミ
  のことですから「史」にはなりません。では、「史」とは何かということですが、「史」とは、先ずもって「時間」であり、どういう時間が流れ
  たのかということです。次にその「時間」の中にどういう人間がいたのかということです。三つめは、その人間が何故そこにいたのかと
  いうことです。この「時間」「人間」「環境」の三つが結合したところに社会というものが生まれます。その社会がどれほど小さなものであ
  ろうとも、どれほど閉ざされたものであろうとも、そこにあった事実を解明すること、この作業からしか「史」の名に値するものは生まれま
  せん。小松さんの言葉を借りて言えば、「掘り起こす」ということでしょう。

 札幌郷土を掘る会が発行している「札幌民衆史シリーズ 」のNO10は『さっぽろのタコ部屋』、その120頁を開きます。

朝鮮人を立坑から突き落とし、そのままにした」手稲鉱山(手稲区)

  1935(昭和10)年に6700人だった旧手稲町の人口は、45年には1万2000人と膨らんだ。そこには
 手稲鉱山が大きく関わっている。手稲鉱山は、1935年に三菱鉱業によって本格的な操業を開始した。
敗戦近くの
 鉱山は東洋一の設備を誇る大きな選鉱場を持ち、金銀銅の成分を凝縮した精鉱を産出して、軽川(現手稲)駅から瀬
 戸内海にある直島の精錬場へ送っていた。しかし、戦局が難しくなると道内の精錬場に送るようになった。(最盛期
 には10日間に金銀合わせて94Kgも産した)。この作業に駆り出されたのが朝鮮人と日本人であり、そこには「タ
 コ部屋」が存在していたと推定される。日本政府は、兵力の充実と労働力確保のため、1938年に国家総動員法を
 制定し、その確保をはかるが、それにもかかわらず労働力需要を満たすことができなかった。翌年朝鮮人労働力の移
 入を閣議決定した。その数は3000人を超すといわれている。

163頁へ進みます。

  「タコ部屋が生まれた背景」

   先に述べた前近代的なタコ部屋はなぜ生まれたのだろうか。その理由として、以下の4点が考えられる。 ①大量の労働力の必要性=
  明治期に労働力が大量に必要となった時期は、一つに、国家による道路・鉄道・工事現場などが推進された明治半ば頃までの殖産興業
  時代がある。その主な労働力を支えたのは、都市へ流入した貧しい農民層だった。北海道においても、1869(明治2)年に開拓史が置か
  れ、道路・鉄道などの建設が計画されたが、労働力の不足のため、費用の面で一石二鳥でもあった囚人を使用することにした。いわゆる囚
  人労働が1885(明治16)から1896年までの12年間行われた。

   もう一つは、明治30年代の産業革命後がある。大工場の機械化によって大量の資源・原料が必要となると、大量輸送を可能とする道路・
  鉄道・運河・港湾などが急ピッチで建設され、それを背景に建設業が興ってきた。そのことにより、さらに大量の労働力が必要となった。この
  頃、1896年の「北海道鉄道敷設法」による鉄道等の諸工事が増大していたが、マスコミや世間の激しい批判と労働力の需要の増大に到底
  応じきれないことにより、囚人労働を廃止し、飯場制度のタコ部屋制度に力が注がれた。囚人労働の廃止に代わり、労働力の増大に応えるも
  のとして、タコ部屋制度が土建・鉱山資本などの手で本格的に開始され、以後、鉄道、道路、発電所やダム、水田造成や拡張のための国の補
  助費による灌漑・貯水池などの各種の建設工事、鉱山操業にタコ部屋労働者が大々的に投入された。北海道は本州の大企業への資源・原料
  の供給と食料供給という内国植民地としての面も併せ持っていたのである。

        「金山鉱山」

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 民衆史シリーズのNO9『憲法・平和主義を掘る』の158頁から少し書き写します。

  証言する地元住民

 札幌の手稲山に1935(昭和10)年から71年まで金銀銅などを採掘していた鉱山があった。そこに強制連行が開始された
  1939年10月5日に、第一陣として300名の朝鮮人が送り込まれた。最盛期には1400~500人いたといわれる。経営者は
  この時三菱金属鉱業(株)であった。(鉱山の朝鮮人労働や生活の様子は、札幌郷土を掘る会が89年に発刊した札幌民衆史
  シリーズ3『海峡の波高くー札幌の朝鮮人強制連行と労働―』に詳しい)。選鉱所から排出される鉱滓(こうさい)は有毒であった。
  日々大量に排出される鉱滓をその辺に放置するわけにはいかないので、新たに大きな貯水池を造ることになった。それは現在
  の稲穂駅より東北側に建設し、そこに鉱滓を星置の選鉱所からパイプラインを通して流し込むというものであった。

  この本では、戦後穴から穴へ13年間北海道の山の中で逃亡の日々を送った中国人劉連仁(リュウ・リエンレン)さんのことを
  教えられた。この人は山東省出身で、31才になった44年9月28日早朝、日本軍の傀儡(かいらい)となっていた中国兵に拉致
  され、日本に連行され、雨竜郡沼田町にあった明治鉱業(株)昭和鉱業所で強制労働をさせられた。発見されたのは1958年(昭
  和33年)2月8日、処は当別町の山の中です。

  私が読んだ民衆史シリーズは『戦争に反対した人たちがいた』『元日本兵ら10人の証言』『小説「血の呻き」とタコ部屋』『憲法・
  平和主義を語る』の4冊で、すべて曙図書館から借り出したものです。『母と子でみる  地域で憲法九条を学ぶ』(小松豊・清水功
  共著―草の根出版会)は星置図書室のものです。

  『血の呻き』という小説を書いたのは沼田流人(ぬまた るじん)という人で、1898年(明治31)生まれで、小林多喜二より5歳年
  上です。作品は流人24歳の時のものです。この小説については序文を書き写します。

  当小説は強制労働における虐待の極めて残酷な描写が特徴であるが、それにもまして使い捨てられるときにただ土中に生き埋
  めにするだけでなく、捨てるときの虐待や捨て場の場面、いわば地獄を描いている点が他の小説等にない極めて稀な特徴といえる。
  「酷使・残酷さ」の実態描写でいえば、小林多喜二の小説『蟹工船』とその中に記述されているタコ部屋を遥かに凌駕している

   ・・・・・小松さんは、「私のやっていることはすべて小池喜考先生の志と方法を受け継いだものです」と語っていたが、しかし、これは
  単なる継承ではなく、その運動には拡大と発展があると私は思う。例えば、矢臼別演習所のこと、ベトナム戦争のこと、コスタリカの平
  和主義のこと、戦争法と北海道のこと、後方支援という名の参戦協力の実態等々。

  小松さんと「札幌郷土を掘る会」の運動のこれまでの実績とその全体像を一人でも多くの人に伝えることは9条の
 会の呼びかけ人として喜ぶべき義務であると、私は思う。よって、この小冊子を記念文集として作る。内容の出来不
 出来は私の判断するところではありません。

  ただただ歴史を掘り起こす運動に小松さんに学びながら参加するだけです。また、このことを多くの人に呼びかける。
 特に若い人に熱き想いをもって呼びかける。

     2019年3月17日・日曜日

   星置9条の会・事務局長  中本雪人

 

 

 

 

 

  沼田流人(ぬまた るじん)の小説 「血の呻き」  

ダーツ建築事務所(ホームペイジ) から 
 

  倶知安町に沼田流人という小説家を志望しながら日の目を見ることができなかった無名の作家が存在した。
  北海道文学全集 第6巻(抵抗と闘争) のなかに「地獄 」という題の作品が掲載されている。1923年 長編小説「血の呻き」
  が全国出版されたが警察により発行禁止処分となった。1925年 治安維持法が制定 翌年、流人自ら改題、改作し「地獄」と
  して発行。検閲で伏字と一部抹消されて、原文に復刻されることもなく埋もれた作品となっていた。軍事国家が酷使労働の実
  態と警察の姿勢や、残虐行為の公表を恐れた結果、小説の伏字や抹消、発禁を行なったものである。(国が請負側と結託し
  主導したのだろう。)

  2010年 札幌郷土を掘る会が「札幌民衆史シリーズ11」として、「血の呻き」のタコ部屋労働部分を復刻し出版した。札幌郷
  土を掘る会は、過酷労働の極めて残酷な描写にフィクションの疑いを持ったが、取材の結果作者の体験をもとにする実態小説
  との確信を持ち復刻を決めた。当時の新聞記事や、過去の証言者の記録からも裏づけられる。  

 小説のタコ部屋の描写は19171920(大正9)年にかけて行なわれた露天掘り脇方鉄山から倶知安駅までの軽便鉄道東倶
  知安線敷設工事の出来事と思われる。1918年から始まるシベリヤ出兵に重なり、以降、満州国樹立、日中戦争へと拡大して
  いくわけだが。タコ部屋労働者は、1886(明治19)年 樺戸囚治監の囚人による道路工事とは区別する必要がある。未開地の
  労働力不足を補うため、周旋屋が「騙し」と「前借」で求職者を獲得し工事現場に斡旋した。酷使と虐待、悪待遇にあわせ秘密
  保持のため、逃亡者の追跡も執拗に行なわれた。警察も請負者側の見方となった。国と元請が都合のいい制度を作り出し、弱
  者を使い捨てにした。
  その結果、タコ部屋の実体験を小説にした沼田流人は小説家の道を閉ざされたのだろう

小説「血の呻き」は札幌郷土を掘る会が発行している。
連絡先 〒007-0807 札幌市東区東苗穂73丁目7-16
      TEL/FAX 011-785-2622

 


 
  NO 4

 

 講師

小松 豊さんのプロフィール

札幌郷土を掘る会・代表

 

〇 1947年当別町で生まれる。中学2年秋札幌へ。

〇 高卒で就職、約6年間会社勤務。

〇 25歳時、教育大学札幌分校に入学、29歳時卒業。

  教員となる。中学校社会科教員の傍ら民衆史掘り起こし運動に参加。

 様々な体験者からの聞き取り開始。

  書籍・冊子にして発行。

札幌民衆史シリーズ 1 『戦後も続いたタコ部屋労働(真駒内米軍基地工事)』(1987年)。

札幌民衆史シリーズ 15 『北緯50度 樺太戦と先住民族』(2019年)

〇 手稲鉱山の体験者・勤務者の体験聞き取りやフィールドワ-クも実施している。

 

 

    「札幌民衆史シリーズ」

  小冊子編集委員会編 「札幌郷土を掘る会」

 

 

  

 

1 体験者が語る戦後も続いたタコ部屋労働・真駒内米軍基地建設工事

 

2 今も聞こえる藻岩の叫び・札幌の水と電気の礎になったタコ部屋労働者・朝鮮人労働者に光を・北電藻岩発電所工事

 

3 海峡の波高く・札幌の朝鮮人強制連行と労働

 

  かたむいた天秤・「非国民」とみなされた札幌の弾圧犠牲者 1・100名

 

5  戦争に反対した人たちがいた・弾圧に抗した青春

      曙図書館所蔵

6  戦争体験庶民が支えたあの戦争は・・・・

 

7  戦争を掘る・「証言 加害と被害・中国から東南アジアへ」

    

 

8  ポンソンファ(鳳仙花)・証言植民地体験「日本統治下の朝鮮・サハリンの生活」

 9  憲法・平和主義を掘る「ベトナム戦争・コスタリカ・矢臼別」

         曙図書館所蔵

 

10  さっぽろのタコ部屋・このままでは殺される

       曙図書館所蔵

11  小説『血の呻き』とタコ部屋  酷使・虐待・使い捨て場の地獄、それらを守る巡査と検閲

         曙図書館所蔵

     『母と子でみる  地域で憲法九条を学ぶ』

   小松豊・清水功 共著  草の根出版会

        星置図書室所蔵

 

 ※   曙図書館に無い本は星置図書室(地区センター1階)に予約を申し込めば1週間ほどで本館から届きます。

お急ぎの方は石狩図書館に2階の「北海道関係コーナー」に行けば借り出すことが出来ます。尚、ここでは小池
喜考さんの著作は全部揃えてあります。

『谷中から来た人たち 足尾鉱毒移民と田中正造』

『鎖塚 自由民権と囚人労働の記録』

『秩父颪 秩父事件と井上伝蔵』

『伝蔵と森造 自由民権とアイヌ連帯の記録』

『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』


『雪の墓標 タコ部屋に潜入した脱走兵の告白』(共著)

『平民社農場の人びと 明治社会主義者のロマンと生きざま』

『北海道の夜明け 常紋トンネルを掘る』

    小池喜考(こいけ きこう。別名よしたか)

1916年(大正5年)~2003年(平成15年)

教育者・編集者・歴史研究者

 

20091221

   新刊紹介 さっぽろのタコ部屋-このままでは殺される-札幌郷土を掘る会

   今日の問題にも通底


 

 

 

 

戦前、北海道の河川・道路などの土木工事は、その多くが「タコ部屋労働」といわれる強制労働や、朝鮮人・中国人の強制
 労働によって担われました。馴染みある地名が登場しますが、そこで行われていた労働は過酷なものでした。脱走者は見せ
 しめ集団リンチにあい、生き埋めにされた遺体は今も山林に埋められたままです。


  集団リンチ目撃者や逃亡者の手助けをした人々が語る 「タコ部屋」 の証言は生々しく、読みながら痛みを感じるほど。極限
 まで人間を抑圧し、逃げ出せば撲殺される人権無視の実態が暴かれています。タコ部屋労働者は中国や朝鮮からもかき集め
 られ、差別を受けた朝鮮人が、「俺は人間だ」と叫んで袋叩きにされたことも記録されています。


 周旋屋にだまされ、前借金をした労働者が、住みこみで過酷な肉体労働を強いられ、逃げだせないそれは現代にも通ずる
 ものがあります。「逃亡は逆境から生きようとする積極的行為。逃亡者らから学ぶこともあるはず」
過去を学び、悲劇を繰り
 返さぬよう本書は呼びかけています。(渋)(札幌郷土を掘る会・
1000円)

    (北海道民医連新聞20091126日号より)

 

  札幌郷土を掘る会 

代表 小松 豊

    電話  011-785-2622

   〒007-0807  東区東苗穂7条3丁目  

 
  NO 5

   朝鮮人「徴用工」問題を考える

   2018・12・16  しんぶん・赤旗

 「札幌・丘珠飛行場建設実態を調査」   (抜粋)

     小松 豊さんに聞く

            聞き手 伊藤佑亮

 

   戦前、朝鮮人の労働力移入のための「強制連行」の時期は三つに分けられます。
   1939年9月からの「募集」方式、42年6月からの「官斡旋」、44年9月から終戦までの「徴用令」です。
  37年に本格化した日中戦争に出征し、全国で男性の働き手が不足したためです。「徴用令」では白紙一枚で日本
  に連れて来られました。

  3練のタコ部屋

   全国に70万人とも言われる人たちが動員されていました。北海道内へ連行された労働者は、6年間に14、15
  万人に上ると推定されています。多くが炭鉱や鉱山、土木工事に就きました。私が調べた、42年に始まった陸軍丘
  珠飛行場(現・丘珠空港=札幌市東区)建設では、労働者5000人のうち3000人が朝鮮人だったという証言も
  あります。

  朝食は立ち食い

   日が長い季節には午前4時から午後8時まで働くこともありました。棒頭が見張る中、タコ部屋から縄を腰につけ
  て数珠つなぎでぞろぞろと現場に歩いていき、休みなく働いてまた数珠つなぎでタコ部屋に戻ります。
   敷地内には棒頭が住み、別室には夜番も寝ないで監視しており、鍵は外から掛けられていました。

 被害者に請求権

  今回の韓国大法院の判決に対し、安倍首相は「完全かつ最終的に解決している」と言っていますが、その安倍首相
  が根拠とする65年の日韓請求権協定は、国と国との間の問題です。日本から韓国への経済援助は行われていますが、
  当時、韓国は軍事政権だったこともあり、被害者個人には支払われてはいません。被害者個人の請求権があることは、
  いまも日本政府も認めています。
  人権をまったく無視した朝鮮人への強制連行と強制労働を深く認識し、日本政府も大企業も、元徴用工の人たちが求
  めている個人の請求権にきちんと対応すべきです。

 

   

「発言」

  2015年9月、にわかに韓国、中国、アメリカ等で「慰安婦」問題が再燃しました。それが契機になって、当冊子の
  増刷となりました。

  「慰安婦」問題の主な核心は、始まりである勧誘時の方法(騙し、拉致等)と慰安所での強制の有無であり、本書では、こ
  の問題の本質を事実をもって明らかにしようとするものです。また今後の課題として、敗戦直後、戦場に捨て置かれた元
  慰安婦の消息調査が残されています。
 戦争体験者の高齢化で「語り継ぐ活動」が重要になっている昨今、聞き捨てならぬ「慰安婦」発言が飛び出しました。
  第1に指摘しなければならないのは、安倍晋三首相の発言です。内閣官房副長官だった2001年に、NHK・ETV慰
  安婦番組に圧力をかけて、改編させた前科があります。NHKを退職した当時の関係者が証言しています。

  その後、2007年の第1次安倍内閣時代に、政府答弁書「政府が発見した資料(公文書)に強制連行を示す記述はなかっ
  た」旨(その内容は虚偽)の閣議決定(3月16日)をしています。それは今も撤回されていません。

   そうした動きに対して反撃の動きも出てきました。NHKのOB有志が「公共放送の中立性」(安倍のスピーカーとの酷評
  のあった秘密保護法・集団的自衛権問題報道)を憂慮して、今年8月21日、1200人以上の賛同を得て、籾井勝人会長
  の「辞任勧告か罷免」を申し入れました。さらに、全国の市民団体は会長と百田尚樹・長谷川三千子両経営委員の罷免を求
  める署名運動を開始、署名は6万人を超えました。
  第2は、2013年5月の橋下徹大阪市長の「商行為」「慰安婦は必要だった」「日本だけではない(戦中の制度として
  は日本とドイツだけ)」という発言です。耳を疑うような、当事者を冒涜する発言で、幼稚な人権感覚としか言いようがあ
  りません。
  しかし、歴史的事実を事実として受け止めない勢力には未来がないことを指摘しておきます。
  20数年前の当会の戦争体験聞き取り証言の中に、元日本兵らの「二度とあってはならぬ」と憂慮して語った「慰安婦」証言
 が10あります。その中に、朝鮮支配時代の学校で15歳前後の朝鮮人少女らが就職先を決める際、騙されて連れ出されたとい
 う証言があります。その後、彼女らは行き先も目的も知らされずに憲兵に連行され、満州等の慰安所に入れられました。そこに
 は中国人の少女らも混在していました。
  慰安所では日本兵の相手を1日に何人も強要され、慰安所の周囲は24時間日本兵に取り囲まれ、逃げるに逃げられない状態
 におかれていました。この軍隊「慰安婦」は、まさに性奴隷制度というべきものでした。
 そうした数知れない少女の中から、高齢になった被害女性たちが戦後50年を迎える頃から日本政府に損害賠償を求めました。
 しかし、年月がいたずらに経つばかりで、ついに止むに止まれず、人生をかけて日本政府を相手に裁判を起こしました。199
 1年から2001年に10件の慰安婦裁判が始まりました。
 目的は人間としての名誉回復でした。ちょうど戦後補償裁判が盛り上がった渦中です。時効などの壁で賠償請求は認められま
 せんでしたが、内8件は「事実認定」され、慰安婦制度の存在は司法の場で確定しました。
ちょうど裁判になっていた頃の1997年、札幌で「補償すべきだ」との発言が発言者本人の知らぬ間に「しなくてよい」に
 改ざんされたという出来事もありました。三光作戦などの他の加害行為と違って、人道に対する罪として国際的に関心の高い
 「慰安婦」問題は、常に「古くて新しい現在につながっている問題」として登場しています。

  当時帝国主義の日本に支配されていた韓国(朝鮮)や台湾のみならず、日本軍が侵略した中国や東南アジア諸国、さらには欧
 米諸国等が注目するこの問題には、日本が取り戻さなければならない「信用」がかかっています。
本来なら被害者から言われる前に、そして裁判にかけられる前に政府自ら事実を認め、心から謝罪し、教育を含めた補償等の
 後始末をきちんとすべきことです。裁判になり、かつ棄却したということは、「恥ずかしい国」を意味しています。
1日でも早く平和と人権を今以上に大切にする政府をつくりたいものです。
 そのためにも、その一歩としてこの性奴隷制度の実相を広めたいと思います。
 被害者は高齢ゆえ、ことは急がれます。

   2015年10月10日

     小松 豊(札幌郷土を掘る会)

 

   ※『「軍隊慰安婦」元日本兵ら10人の証言』

  編著者 札幌郷土を掘る会冊子編集作成委員会

  発行者  小松豊

  発行所  札幌郷土を掘る会
  

  定価   300円(税込)

 

 

 

 

   「ハツクフィン協奏曲」-夜の画廊からー
 責任者を処罰せよ
 

    2010年9月    「5」 

 韓国に、元日本軍「慰安婦」のハルモニたちが共同生活をしている家があるのをご存じですか?
 それが「ナヌムの家」です。「ナヌム」とはハングルで「分かち合い」という意味で、その「分かち合
 いの家」では、元日本軍「慰安婦」の韓国人ハルモニたちが仏教団体の支援を受けながら、文字
 通りの共同生活を送っています。
  元日本軍「慰安婦」のハルモニたちは、過去の人ではありません。わたしたちと同じ時代に生き、
 同じ空気を吸っている人間なのです。

  (注1) 2001624日・加筆 今まで日本国内で使われていた「従軍慰安婦」という言葉は、
 強制的に繰り返し性暴行を受けた被害者の立場に立ったものでなく、当時の状況を考えると適当
 でないとされ、国際的には「性奴隷(Sexual Slave)」「性暴力被害者」という用語が使われています。

「従軍」には従軍看護婦などのように「自らすすんで」というニュアンスがあり、「慰安」も日本軍から
 のみの見方の言葉です。
 しかし、様々な理由から日本軍「慰安婦」歴史館の名前にも、「慰安婦」という用語が使われています。
 このホームページでは、広く知られている慰安婦という言葉にカギカッコをつけ、また日本軍の元で「慰
 安婦」の生活を強いられていたとして、日本軍「慰安婦」としています。

  (注2) 韓国・朝鮮ではお年寄りの女性のことを、親しみと尊敬を込めてハルモニと呼びます。

 

姜徳景(カン・ドクキョン)

   (本人の証言から)

           

  • 1929年:慶尚南道普州 生まれる。
  • 1943年(15歳、高等科1年):先生に言われ挺身勤労隊として日本へ、富山県の不二越の工場で旋盤工として
  • 働く。給料は預金しておくという事でくれなかった。
  • 3,4ヶ月後)食事が少なく空腹のため逃げ出すが戻る。更に2,3ヶ月後逃亡、道で腕章をして肩に星が3つある
  • 「小林」という憲兵につかまりトラックに乗せられ山の中で犯された。更にトラックで移動小さな部隊付属のテン
  • トで他の女と一緒に4ヶ月間毎晩強姦された。
  • 4ヶ月後)更に「小林」によりトラックで移動、畑が広がる場所の大きな部隊の20人くらいの女がいる慰安所で
  • 兵隊の相手をさせられた。また防空壕の中でも兵隊の相手をさせられた。地名を聞いたらマツヤマあるいは
  • マツシロ(松代大本営と思われる)と聞いた。兵隊の「小林」は天皇陛下が避難に来る所と言っていた。
  • 1945年:ある日、泣いている声が聞こえ終戦だった。大阪へ更に伏木の朝鮮人部落へ移動。
  • 朝鮮人部落で働きそこの人と一緒に朝鮮へ帰った。
  • 19928月日本の長野県松代で講演
  • ナヌムの家に住む 19972月:死亡
       「韓国・ナヌムの家に住んでいた
             姜徳景(カン・ドクキョン)ハルモニの描いた絵

    「奪われた純潔」            「無題」

 


 
   NO 6

 「朝鮮人徴用工問題 どうみる」

   明治大学教授  山田 朗さん

  2018年11月29日(木曜日)しんぶん・赤旗「焦点・論点」

 

 戦争中、徴用工として日本で奴隷的労働を強いられた韓国人4人が訴えた韓国の裁判で新日鉄住金に賠償を
 命じた大法院(最高裁判所)判決をどう見るか、山田朗明治大学教授(日本近現代史)に聞きました。(伊藤紀夫)

 

この問題では日本が朝鮮を植民地支配した歴史からの視点が大事ですね。

 

  そうです。二つの問題があると思います。一つは、戦時中の強制連行、強制労働の実態をどう私たちが認識し、
 伝えていくかという問題です。植民地支配の問題は、戦争以上に記憶が希薄化してしまって、継承されていない。
 そこにまず問題があります。【中略】日本は侵略戦争をしただけでなく、朝鮮を植民地支配し、朝鮮半島から多く
 の人たちを日本国内に連れてきて、強制労働させていたのです。

  徴用工の実態は?

 

  国民徴用令が適用されて徴用となるわけですが、それ以前の段階では「官あっせん」、その前は「募集」です。
 公権力が介入して労働力を朝鮮半島から連れてくるシステムは段階的です。徴用は最後の段階で、法的根拠をもち、
 強制力を伴っている。だから、拒否することはできない。その前は自由意思できたように見えるけれども、実はそん
 な差はない。というのは、朝鮮半島から労働力を移入する場合、だいたい地域に人数を割り振ったうえで、募集する
 。応募が少ないと、いろいろな手を使って勧誘をし、ほとんどだましたような形で連れてくる。

  しかし、だますというのは限界があるから、最後に国民徴用令を適用して強権的に連れてくるようになっただけです。

 

  食糧もコウリャンなど粗末なもので、事故で亡くなる人も多かった?

   単純労働に充てられた人たちは、いわゆる「タコ部屋」労働です。全般的に食糧不足で、粗末なものしか与えられ
  なかったことは、証言などからも明らかです。そもそも危険な仕事なのに、それに見合った報酬どころか、きわめて
  劣悪な条件で低賃金でした。

 

   もう一つの問題は?

   二つ目は、「明治150年」と安倍政権は宣伝していますが、日本近代の在り方にかかわる問題です。「脱亜入欧」と
  いう明治時代の日本国家の大きな方針が、
アジアの近隣諸国を一段格下に見るという考え方を非常に強く植え付けまし
  た。

    いまの徴用工問題での日本の対応にも近隣のアジア諸国に対する見下した目線が反映していると思います。
 【中略】今回、マスコミの反応などを見ても、日本政府と軌を一にして、最初から「韓国はけしからん」という論調です。
  歴史の事実を直視しない問題と同時に、近隣アジアの人たちを下に見る目線・価値観が非常に影響していると思います。
  こういう問題では、マスコミは固まってしまう。もし、戦争になったら、いっせいに政府の応援団になりかねない素地が
  見えて、不安ですね。

 

 出入国管理法改定案について?

   戦争中も、朝鮮半島から連れてこられた人は、安上がりな一労働力としてだけ見られていた。その人の生活とかは一切関
 係なく連れてこられた人たちです。

 発想としては、いまの外国人労働者受け入れ拡大問題とそんなに違いない。
 日本の都合によって連れてくるという発想ですからね。
  植民地支配がいかに深い傷痕を残すものかということを、日本はきちんと認識しないといけません。こういう問題は被害者
 の話が一番基本になります。それをいかにくみとるか、誠実に話を聞くことが出発点のはずです。日本政府はそこをまず拒否
 して、一体、どういう被害があったのかということを見ようとしない。そこに根深い問題があります。

  今回の徴用工問題でも、過去の不都合な事実を隠蔽(いんぺい)して歴史から学ばない姿勢では、公正な解決ができないし、
 近隣諸国との真の友好関係はつくれません。



   NO 7 

   <三・一運動記念式の文大統領演説全文>

     2019年3月1日  ソウル

  尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、100年前のきょう、われわれはひとつでした。3月1日正午、学生たちは
  独立宣言書を配布しました。
   午後2時、民族代表たちは泰和館で独立宣言式を行い、タプコル公園では約5000人が一緒に独立宣言書を朗読しま
  した。たばこをやめて貯蓄し、金はかんざしと指輪を差し出し、さらには切った髪を売って国債報償運動に加わっていた労
  働者や農民、婦女子、軍人、車夫、妓生、と畜業者、作男、零細商人、学生、僧侶など平凡な人々が三・一独立運動の主
  役でした。
  その日、われわれは王朝と植民地の百姓から、共和国の国民へと生まれ変わりました。
  独立と(植民地支配からの)解放を超え、民主共和国のための偉大な旅路を歩み始めました。 100年前のきょう、南も北
  もありませんでした。
  ソウルと平壌、鎮南浦と安州、宣川と義州、元山まで、同じ日に万歳の声がわき上がり、全国あちこちに野火のように広が
  っていきました。
  3月1日から2カ月間、南北韓を分かたず全国220の市・郡のうち211の市・郡で万歳デモが起こりました。
  万歳の声は5月まで続きました。
  当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。
  約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。
  最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。
  3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。
  京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。
  しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。
  北間島・竜井や沿海州のウラジオストクで、ハワイとフィラデルフィアでもわれわれはひとつでした。民族の一員として誰でもデ
  モを組織し、参加しました。
  われわれはともに独立を熱望し、国民主権を夢見ていました。
  三・一独立運動の声を胸に収めた人々は、自分と同じ平凡な人々が独立運動の主体であり、国の主人だという事実に気付き
  始めました。そのことが、より多くの人の参加を呼び込み、毎日のように万歳を叫ぶ力になりました。
  その最初の結実が、民主共和国の根源である大韓民国臨時政府です。
  大韓民国臨時政府は臨時政府憲章第1条に三・一独立運動の意義を込めて「民主共和制」を明記しました。
  世界史上で憲法に民主共和国を明示した初の事例でした。
   尊敬する国民の皆さん、親日残滓(ざんし)の清算はあまりにも長く先延ばしにされた宿題です。
  誤った過去を省察するとき、われわれは共に未来に向かって進むことができます。
  歴史を正しくすることこそが、子孫が堂々とできる道です。
  民族精気の確立は国家の責任であり、義務です。今になって過去の傷をほじくり返して分裂を引き起こしたり、隣国との外交で
  あつれき要因をつくったりしようとするものではありません。どれも望ましいことではありません。
  親日残滓の清算も、外交も未来志向的に行われなければなりません。
  「親日残滓の清算」とは、親日は反省すべき、独立運動は礼遇を受けるべきという最も単純な価値を立て直すことです。
  この単純な真実が正義であり、正義がまっすぐあることが公正な国の始まりです。
  日帝は独立軍を「匪賊」、独立運動家を「思想犯」と見なして弾圧しました。このときに「アカ」という言葉もできました。
  思想犯とアカは本当の共産主義者だけに使われたのではありません。民族主義者からアナーキストまで、全ての独立運動家
  にレッテルを張る言葉でした。
  左右の敵対、理念の烙印(らくいん)は日帝が民族を引き裂くために用いた手段でした。
  解放後も親日清算を阻む道具になりました。
  良民虐殺、スパイでっち上げ、学生たちの民主化運動にも、国民を敵と追い込む烙印として使用されました。
  解放された祖国で日帝警察の出身者が独立運動家をアカとして追及し、拷問することもありました。
  多くの人々が「アカ」と規定されて犠牲になり、家族と遺族は社会的烙印の中で不幸な人生を送らねばなりませんでした。
  今もわれわれの社会で政治的な競争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー
  論」が猛威をふるっています。われわれが一日も早く清算すべき代表的な親日残滓です。
  われわれの心に引かれた「38度線」は、われわれを引き裂いた理念の敵対をなくすとき、一緒に消えるでしょう。
  互いに対する嫌悪と憎悪を捨てるとき、われわれ内面の光復(植民地支配からの解放)は完成するでしょう。
  新たな100年はその時になって初めて本当に始まります。
   尊敬する国民の皆さん、過去100年、われわれは公正で正義のある国、人類全ての平和と自由を夢見る国に向けて歩んでき
  ました。
  植民地と戦争、貧しさと独裁を乗り越え、奇跡のような経済成長を遂げました。
  四・一九革命と釜馬民主抗争、五・一八民主化運動、六・一〇民主抗争、そしてろうそく革命を通じ、平凡な人々が各自の力と方
  法でわれわれ皆の民主共和国を築いてきました。
  三・一独立運動の精神が民主主義の危機のたびによみがえりました。
  新たな100年は真の国民の国を完成させる100年です。
  過去の理念に引きずられることなく、新たな思いと気持ちで統合していく100年です。
  われわれは平和の朝鮮半島という勇気ある挑戦に乗り出しました。変化を恐れず、新たな道に踏み込みました。
  新たな100年はこの挑戦を成功に導く100年です。
   2017年7月、ドイツ・ベルリンで「朝鮮半島平和構想」を発表した時、平和はとても遠くにあり、手に入れることができないように
  思えました。しかし私たちはチャンスが訪れた時に飛び出し、平和をつかみました。
  平昌の寒さの中、ついに平和の春は訪れました。
  昨年、金正恩委員長と板門店で初めて会い、8000万の民族の心を一つに、朝鮮半島に平和の時代が開かれたことを世界の前
  で宣言しました。
   9月には綾羅島競技場で15万の平壌市民の前に立ちました。
  大韓民国の大統領として平壌市民に朝鮮半島の完全な非核化と平和、繁栄を約束しました。
  朝鮮半島の空と地、海から銃声が消えました。
  非武装地帯で13柱の遺骨と共に、和解の心も発掘しました。
  南北の鉄道と道路、民族の血脈がつながっています。
  黄海5島の漁場が広がり、漁民たちの満船の夢が膨らみました。
  虹のように思われた構想が、われわれの目の前で一つ一つ実現しつつあります。
  もうすぐ非武装地帯は国民のものになるでしょう。
  世界で最もよく保存された自然がわれわれへの祝福となります。
  われわれはそこに平和公園をつくるなり、国際平和機関を誘致するなり、生態平和観光をするなり、巡礼の道をつくるなり、自然
  を保存しながらも南北国民の幸福のために共同で使用することができるようになるのです。
  そこはわが国民の自由で安全な北旅行へとつながっていくでしょう。
  離散家族と失郷民(北朝鮮からの戦争避難民)たちが単なる再会にとどまらず、故郷を訪問して家族親戚と会えるよう、取り組ん
  でいきます。
  朝鮮半島の恒久的な平和は、多くの峠を越えることで確固たるものとなります。
  ベトナム・ハノイでの2回目朝米(米朝)首脳会談も、長時間の対話を交わし相互理解と信頼を高めただけでも意味ある進展でした。
  とりわけ両首脳の間で連絡事務所の設置まで議論がなされたことは、両国関係の正常化に向けた重要な成果でした。
  トランプ大統領が示した持続的な対話の意志と楽観的な展望を高く評価します。
  より高い合意へ進む過程だと考えます。
  ここで、われわれの役割が重要になってきました。
  わが政府は米国、北と緊密に意思疎通しながら協力し、両国間の対話の完全な妥結を必ず実現させてみせます。
  われわれが抱く朝鮮半島平和の春は、他人が生み出したものではありません。
  われわれ自ら、国民の力で生み出した結果です。
  統一も遠くにあるのではありません。
  違いを認めながら心を一つに、互恵的な関係を築けば、それがまさに統一です。
  これからの新たな100年は、過去とは質的に異なる100年になるでしょう。
  「新朝鮮半島体制」へと大胆に転換し、統一を準備していきます。
  「新朝鮮半島体制」はわれわれが主導する100年の秩序です。
  国民と共に、南北が共に、新たな平和協力の秩序を生み出していくのです。
  「新朝鮮半島体制」は対立と葛藤を終わらせた新たな平和協力共同体です。
  われわれの一貫した意志と緊密な韓米連係、朝米対話の妥結と国際社会の支持を土台に、恒久的な平和体制構築を必ず成し遂
  げます。
  「新朝鮮半島体制」は理念と陣営の時代を終わらせた、新たな経済協力共同体です。
  朝鮮半島の「平和経済」時代を開いてまいります。
  金剛山観光と開城工業団地の再開案も米国と協議します。
  南北は昨年、軍事的な敵対行為の終息を宣言し、「軍事共同委員会」の運営に合意しました。
  非核化が進展すれば、南北間で「経済共同委員会」を構成し、南北双方が恩恵を享受する経済的な成果を生み出すことができる
  でしょう。
  南北関係の発展が朝米関係の正常化と朝日(日朝)関係の正常化につながり、北東アジアの新たな平和安保秩序も拡張されます。
  三・一独立運動の精神と国民統合を礎に、「新朝鮮半島体制」を築いていきます。
  どうか全国民が力を合わせてください。
  朝鮮半島の平和は南と北を超え、北東アジアと東南アジア、ユーラシアを包括する新たな経済成長の原動力となるでしょう。
  100年前、植民地になったか植民地転落の危機に直面したアジアの民族と国々は、三・一独立運動を積極的に支持してくれました。
  当時、北京大学の教授として新文化運動を導いた陳独秀は「朝鮮の独立運動は偉大で悲壮であると同時に明瞭で、民意をもってし
  ながらも武力を用いなかったことで世界の革命史に新紀元を開いた」と語りました。
  アジアは世界で最も早くに文明が繁栄した所で、多様な文明が共存した所です。
  朝鮮半島平和によってアジアの繁栄に寄与していきます。
  共存を図るアジアの価値と手を取り、世界平和と繁栄の秩序をつくるため一緒に進みます。
  朝鮮半島の縦断鉄道が完成すれば、昨年の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)に提案した「東アジア鉄道共同体」
  の実現が早まるでしょう。
  それはエネルギー共同体と経済共同体に発展し、米国を含め多国間平和安保体制を固めることになります。
  東南アジアの国々とは「2019年韓国・ASEAN特別首脳会議」と「第1回韓国・メコン首脳会議」開催を通じ、「人中心の平和と繁栄
  の共同体」を共につくっていきます。
  朝鮮半島平和のために日本との協力も強化します。
  「己未(三・一)独立宣言書」は三・一独立運動が排他的感情ではなく全人類の共存共生のためのものであり、東洋平和と世界平和
  に向かう道であることを明確に宣言しました。
  「果敢に長年の過ちを正し、真の理解と共感を基に仲の良い新たな世界を開くことが互いに災いを避け、幸福になる近道である」こと
  を明らかにしました。今日も有効なわれわれの精神です。
  過去は変えられませんが、未来は変えることができます。
  歴史を鑑として韓国と日本が固く手を握る時、平和の時代がわれわれに近付くでしょう。
  力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やす時、韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるでしょう。
   尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、過去の100年、われわれが共に大韓民国を耕してきたように、新しい100年、われわ
  れは共に豊かに暮らさなければなりません。
  全ての国民が平等で公正に機会を得ることができなければならず、差別されずに仕事の中に幸福を見出さなければなりません。
  共に豊かに暮らすために、われわれは「献身的包容国家」というもう一つの挑戦を始めました。
  今日われわれが歩んでいる「献身的包容国家」の道は100年前のきょう、先祖たちが夢見た国でもあります。
  世界は今、両極化と経済不平等、差別と排除、国家間の格差と気候変動という地球レベルの問題解決のために新たな道を模索して
  います。「献身的包容国家」というわれわれの挑戦を見守っています。
  われわれは変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。
  われわれは最も平和で文化的な方法で世界民主主義の歴史に美しい花を咲かせます。
  1997年のアジア通貨危機、08年の世界金融危機を克服した力も、全て国民から生まれました。
  われわれの新たな100年は平和が包容の力につながり、包容が共に豊かに暮らす国を作り出す100年になるでしょう。
  包容国家としての変化をわれわれが先導することができ、われわれが成し遂げた包容国家が世界包容国家のモデルになり得ると
  信じています。
   三・一独立運動は今もわれわれを未来に向かって進ませてくれています。
  われわれが今日(三・一運動の象徴である独立運動家)柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の功績を見直し、独立有功者の勲格を高めて
  新たに褒賞するのも、三・一独立運動が現在進行形だからです。
  柳寛順烈士は(忠清南道・天安の)アウネ市場で万歳デモを主導しました。
  (ソウルの)西大門刑務所に閉じ込められても死を恐れず、三・一独立運動1周年万歳運動を行いました。
  しかし、何より大きな功績は「柳寛順」という名前だけで三・一独立運動を忘れられないようにしたことです。
  過去100年の歴史はわれわれが向かい合う現実がどれだけ困難でも、希望を諦めなければ変化と革新を成し遂げることができると
  証明しました。
  今後の100年は、国民の成長がすなわち国家の成長になるでしょう。
  国内では理念の対立を越えて統合を成し遂げ、国外では平和と繁栄を成し遂げる時、独立は真に完成されるでしょう。
  ありがとうございました。


     NO 8 

    時評 1・2・3

  「ハクフィン協奏曲」から 中本 雪人

 1 「歴史を直視せよ」

       2019・2・4 

  今日の新聞のコラムは放送作家の石井彰さんの「テレビ考現学」だ。石井さんは「不思議な現象」という
 ものについて次のように書いている。


  私たちは誰でも、他人に批判されることはイヤなものです。とはいえ歴史的な事実まで、見て見ぬふりを
 するのは卑怯ではないでしょうか?
  日本が朝鮮半島を植民地にして動員した人々に、過酷な条件下で重労働をさせた事実は消せない歴史です。
    【中略】
  韓国や北朝鮮そして中国との間に、いったんなにか問題が生じると、ふだんはリベラルな考え方をする人
 たちも、急にナショナリズムの片棒を担ぐのはなぜでしょうか?

 明治以降、アジアとの長年の友好交流関係を無視してアジアから抜け出し、欧米の仲間入りをはたそうとした、
 間違った「脱亜入欧」の精神がいまだに私たちの根底にあるからではないでしょうか。

  アジアを下に見る潜在(差別)意識が、世論調査の結果や世論を形作るメディアの「反韓嫌中」に現れてい
 る気がしてなりません。今こそ歴史を見つめた多角的な議論をテレビに期待しています。

 
  この文章はテレビ朝日の「羽島慎一モーニングショー」を観ての感想を書いたものだが、1月29日に放映
 されたその番組の内容がどういうものであったかは私はテレビを見ないので分らないが、そのこととは関係な
 く石井さんの言わんとするところは「不思議な現象」として妙に説得力を持っている、と私も思う。

 「反韓嫌中」か、嫌な言葉だね。
 今はどうか知らないが何年か前の書店には、いわゆる「嫌韓本」と呼ばれる雑誌がもっとも目立つ処に山積み
 にされていた。「悪韓論」「呆韓論」「犯韓論」「終韓論」と一端の論文を装った衆愚の饒舌である。私は日本
 の出版文化などというものは信用しないから、こうした反知性主義の祭典には別に驚くこともなかったが、ただ、
 自分が日本人であることがたまらなく恥ずかしく、惨めに思えた。

 しかし、この「嫌韓本」の大洪水は2014年から15年の事だが、それより早く2003年ごろからは韓流ブ
 ームが日本全国を覆いつくし、その勢いは今も止まらず、映画、音楽、ファッション、その他の何であれ青少年
 の流行感覚
や主婦層の娯楽の時間では韓国を抜きにしては何も始まらないのである。これも「不思議な現象」だね。
  この韓流ブームというのは日本だけではなく今では世界的な現象なのだそうだ。韓国に「防弾少年団(BTS)」
 というアイドルグループがあるが、グループ名の意味は、「10代・20代に向けられる社会的偏見や抑圧を防ぎ、
 自分たちの音楽を守り抜く」というものだそうだ。この「防弾少年団」のことをアメリカの音楽雑誌では「21世
 紀のビートルズ」と評価しているそうだ。こと音楽芸能に関しては韓国は世界の最先端を走り、日本は田舎の学園祭
 のレベルであるのは否定しようもない事実だ。

  この数年のジャニーズ・タレントの老化現象は見るも無残なものだし、AKBのロリコン商法の幼児化は犯罪誘発
 の詐欺的品評会でしかなく、どちらも音楽そのものとはまったく関係はない。単なる市場の消耗品にしか過ぎず、そ
 れ
以上でもそれ以下でもない。
  2016年に朝日新聞出版から『嫌韓問題の解き方』という本が出された。
  内容は三章構成で、第一章は東アジア哲学が専門の小倉紀蔵さんの「韓国文化・思想,日韓問題」、第二章は比較政
 治学者の大西 裕さんの「韓国政治、イデオロギー、市民社会」、第三章は移民研究、社会運動論の樋口直人さんの
 「ヘイトスピーチ、在日コリアン、参政権・国籍」だ。

  読みどころは樋口さんの第三章だ。
 樋口さんは民主主義とは、統治される民衆が統治する政治システムを指すという。225頁「失われた参政権と国籍」
 を読む。


  日本のもう一つの特徴は、国籍のあり方とかかわる。ヨーロッパの外国人参政権は、一時滞在から永住に至った移
 民を対象にしていた。在日コリアンも、最初は一時的な出稼ぎとして渡日した点では変わらないが、植民地時代には
 日本に
住むコリアンも日本国籍を持っていた。だから戦前の在日コリアンは、国政を含めて参政権を持っており、朴
 春琴という国会議員も送り出していたのである。在日コリアンにとっての問題は、参政権がなかったことではなく、
 1945年12月にそれまで持っていた参政権を取り上げられたことにある。女性は戦後になって参政権を得たが、
 それとは逆に在日コリアンは参政権を失った。これは、在日コリアンが政治的な力を持っては危険だという当時の国
 会の判断によっており、外国人参政権は憲法違反だという法的な根拠があったわけではない。そもそも、この時には
 憲法もまだ制定されていなかったのだから、判断のしようもなかった。


  ここで素朴な疑問を一つ上げる。ではなぜ戦前は在日コリアンに参政権があったのか、単純化して言えば、その時は
 「在日コリアン」という言葉がなかったからだ。ではなぜなかったのか、その時は朝鮮人というものはなく、彼らは日
 本本土の人間と同じく大日本帝国の臣民であったからだ。ではなぜ朝鮮人でもなく韓国人でもなく帝国の臣民だったの
 か。

  日韓で何か問題が生じると日本政府は伊藤博文の時代から安倍晋三の今日まで、必ず「韓国は国際法を理解していな
 い」と欧米先進国の一員でもあるかのような物言いを吐くが、不思議なことにロシアに対してはこうしたことは言わな
 い。この対露恐怖症も一つの伝統か。明治150年、何も変わっていないような気がするが、これは私の勉強不足だろ
 うか。

  思うに、排外主義とは、粉飾された劣等感のことである。その根底にあるのは無意識の白人願望である。
 伊藤博文は東洋のビスマルクを気取り、近衛文麿はヒトラーを真似し、安倍晋三はトランプにへつらう。
   
   

2 「妖怪の孫」
2019・2・18 

 

  山口一臣というジャーナリストがいる。情報発信集団「THEPOWERNEWS」の主宰者で、元週刊朝日記者だ。
  この人のツイッターがなかなか面白い。
  例えば、次のようなものだ。
  2月12日の通常国会衆院予算委員会で、国民民主党所属の泉健太代議士の「イース・アショア」についての質問に対する安倍首相
  の答弁だ。泉代議士は「イージス・アショアは秋田と萩に固定式である。真っ先に狙われるのではないか。(略)イージス・アショアは2
  基で2404億円、運用費は4389億円。来年度イージス艦は8隻に増え高額のアショアじゃなく、イージス艦のミサイルを増やせば良
  いだけである」と質問したのであるが、当人は経費節約の観点から常識に沿って追及したつもりなのだろうが、実はこの質問は軍拡
  問題が持つ本質とは何の関係もなく、その辺の軍事オタク程度の雑学の漫談にしか過ぎない。イージス・アショアの問題とは、それが
  配備されるのが陸上か海上かといったような陸海軍部の内部調整のようなところにあるのではなく、そもそもが米国兵器の爆買いそ
  のものが憲法違反であるということだ。

   質問そのものが既成事実を容認しているのであるから、一見政策論らしく見えても、そこには政道を正す怒りはなく、論理的な追及
  性もなく、単なる時間潰しのレトリック二しか過ぎない。
   ところがだ、この程度のレベルの質問に答える側の人間の常識というか知性というか、何と言ったらよいのか良く分らないが、つまり、
  安倍首相のことなのだが、これが質問者のまだその下をいく無邪気さなのだから驚いてしまう。
   首相は、海上ではなく陸上に配備される利点として、「これは自分の自宅から通えるわけですから、近くに勤務があればですね、そ
  れは全然勤務状況としては違うんですよ。そういうことも考えていかなければならないんだろうと、こう思いますよ。」と答えたのである。
  イージス・アショア とは、自宅から通勤できる戦争施設なのか、言い換えれば、戦争が日常生活のど真ん中に現実としてあるというこ
  とだ。
   お父さんが腰弁当を持って自転車で通える職場、夕方になれば一日の仕事を終えたお父さんはまた自転車で愛する家族が待つ楽し
  き我が家へ帰ってくる。何とも微笑ましい風景ではないか。何だか昔懐かしい「清く、貧しく、美しく」のホーム・ドラマを見せられているよ
  うな気分だ。確かにそうだ。一か月ローテーションの海上勤務ではこうはならない。それに艦内でのパワハラによる自殺という悲劇を心
  配することもない。
  この質疑応答は恐ろしいほど寒々としている。まるで町内会での世話好きな暇人のご挨拶のようだ。
   さて、山口さんの最新の時評というかコラムというか、こんなことを書いている。
  安倍首相の「自衛官募集」発言についてだ。
  
   一方、自衛隊法施行令第120条には〈防衛大臣は、自衛官又は自衛官候補生の募集に関し必要があると認めるときは、都道府県
  知事又は市町村長に対し、必要な報告又は資料の提出を求めることができる〉とあり、おそらく安倍首相の念頭にあるのもこの規定だ
  と思われるが、前出の園田教授によると、この政令には個人情報保護の観点が含まれていないため、統計的な資料の提供を求める
  ことはできても、具体的な個人情報の提供を求めることまでは許容されていないという。いずれにせよ、ここはかなりセンシティブな部分
  で、「自治体の6割以上が協力を拒否している」などと安易に非難できないことは明らかだ。もちろん、憲法に自衛隊を明記したからとい
  って個人情報の保護を無視していいということにはならない。
   こうした経緯からわかるのは、安倍首相は憲法や法律、政令、条例等の趣旨を理解し、それに従って行政を行うという基本をわかって
  いないということだ。これまた恐ろしい話である。それにしても、行政の頂点に立っているはずの安倍首相がなぜ、こんな簡単に誰にでも
  わかるフェイクに乗ってしまったのだろう。実はそこには恐るべき事実があることを朝日新聞(2月16日朝刊)が書いていた。
   安倍首相のあの発言は、なんと昨年125日に開かれた日本会議系の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の大会で配られたチラ
  シの裏に書かれていた内容とそっくり同じだというのだ。朝日新聞によれば、そこにはこんな文言があったという。
    〈全国6割の自治体が、自衛隊募集に非協力的〉
    〈自治体が円滑に業務を遂行するため、自衛隊の憲法明記を!〉

  驚いた。一国の首相たるものが一民間団体のチラシに書いてあった「話」を鵜呑みにして、改憲の理由にしていたのだ。 このことからわ
  かるのは、いまの日本の首相の情報ルートの脆弱さだ。頭の中がアップデートされず、真偽もわからない情報を鵜呑みにする―――
  日本がいま、どれほどの危機にあるかがおわかりいただけたと思う。

  
   安倍首相は改憲右翼団体「日本会議」が長い年月をかけて育て上げてきた人物である。日本会議にとってはもっとも使い易い男である。
  外祖父であった岸信介も様々な右翼団体と繋がりをもっていた。それは満州人脈とも呼ばれるものだが、岸信介はそういう裏社会の力を
  背景にしてのし上がってきた男である。児玉誉士夫、笹川良一、瀬島龍三、といったフィクサー(黒幕)ばかりでなく、児玉を通して関東の
  有力暴力団(錦政会・稲川裕芳、北星会・岡村吾一、東声会・町井久之)とも繋がっていた。
   岸も児玉も自称愛国者だが、この種の勤皇運動については戦前のことについて言えば、東条英機を始めとする忠実な軍部と赤化撲滅
  に励む内務官僚を持っていた昭和天皇は民間右翼を嫌っていた。また宮廷政治家の吉田茂もこの成り上がりの狂信を貴族主義の立場
  から否定し、自らを保守本流と位置付けた。
  つまり日本の支配層である天皇一族や宮廷政治家から見ても草莽の国家主義者は左翼と同じく騒擾の害虫にしか過ぎなかったのである。
   話を現在に戻す。
  2月16日の朝日新聞は、一国の首相の持つ情報源が何処に在るかを教えるもので、改めてこうした人物を首相として持つことの恥ずか
  しさを覚えるが、まあ、その程度なのだろう。
  それにしてもだ、民間右翼がばら撒いたチラシの内容を事実だと何の疑いもなく受け入れ、それを元に政策実現の根拠を自慢げに長々と
  喋るこの人物は異様を通り越して異常である。念頭にあるのは「徴兵制」なのだろうが、時代錯誤もここまでくれば狂気の沙汰としか言いよ
  うがない。
  そして、この人物は「日本を代表」してトランプ米大統領をノーベル平和賞に推薦したというのだ。この事実を問われた日本代表は得意の
  ご飯論法で「事実ではないと申しあげているのではない」と答えた。外祖父の岸信介も時の大統領ドワイト・アイゼンハワーに忠実だった。
  岸信介の描いた戦後再建策とは、アメリカの了解の下でアジアに君臨する小帝国主義国家の実現であった。
  岸は「政治は力であり、金だ」と言った。また「金は濾過機を通せ」とも言った。
  この政治姿勢には理念や哲学といったようなものはない。ただひたすらの権力志向である。浅ましいまでの保身と遊泳、後は何もない。
  つまりは、政治の私物化である。
  だから私は安倍内閣を倒せというのだよ。

    今日の言葉

  「生まれつきの盲人に目が見えないことを悟らせることはできない。視覚をもちたいと思わせ、その欠陥を悲しませることもできない。」

         モンテーニュ『エセー』
              第二巻第十二章「レーモン・スボンの弁護」

 

 

   3 「3・1独立運動」
2019・3・

  月が代わって今日からは3月。この数日、町内にはショベルカーやダンプが入って排雪作業で忙しく
  動き回り、道の角々で視界を塞いでいた大雪の塊が取
り除かれ、道が広がって風景が一変した。
   まだ桜の花は咲いてはいないけれども、吹く風には春の息吹が感じられる。 それだけで何となく浮き浮
  きしてくるから不思議だ。

 日本の植民地だった1919年3月1日に朝鮮の独立を求めた独立万歳運動から100年を迎えたというこ
 とだ。
日・韓朝関係を日本の側からだけ見るのではなく韓・朝側から見ることが大事だと思う。それは被害と
 加害の事実を知るということだ。日本人の中には韓国
や北朝鮮を嫌う人がいる、韓国や北朝鮮にも日本を嫌う
 人たちがいる。
 対馬の北端と韓国の釜山との間はおよそ50キロ、この地理上の一衣帯水の関係は鉄器文化をもった渡来人の
 日本列島への進出の時代から今日まで変らな
い。民族主義の歴史はそれほど古くはない、民族と国家が同一視さ
 れる国民国
家の誕生は長い歴史の中ではほんのつい最近のことだ。
 この一衣帯水の関係に政治的な差別と偏見が持ち込まれたのは何時頃のことか、そして、その理由は何か、それ
 を必要とした政治勢力とは何か、この3点を正
確に見極めなければならないと思う。
  韓国の首都ソウルで開かれた記念式典で文在寅大統領は演説し、「100年の 歴史は、現実がどれだけ困難で
 も、諦めなければ変化と革新を成し遂げること
ができると証明した」と呼びかけ、「誤った過去を振り返るとき、
 私たちは共に
未来に向かって進むことができる」と語った。
日韓関係については、「歴史を教訓に、韓国と日本が力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やすとき、韓国と
 日本は心が通い合う本当の友人となる」と語
った。
  文大統領の言う被害者とは従軍慰安婦と呼ばれた軍事性奴隷のことであり、強制連行によって日本の産業の底辺
 労働者とされた人たちのことである。しか
しこの二つは植民地抑圧の代表的なものということであり、被害の実態
 はもっ
と奥が深く、もっと広範囲に広がっている。
韓国には「日帝七奪』という言葉がある。
意味は、韓国を植民地とした大日本帝国は朝鮮半島から「国王」「主権」「生命」「土地」「資源」「国語」「名
 前」の7つを奪ったということだ。
 日本の植民地政策の特徴は「同化主義」と呼ばれるものであり、文化・風習・生活の全体に及んでの日本人化(皇
 民化)の強制である。
欧米の植民地政策にはこういう発想はない。この差別主義は人種的偏見に基づいているものであるから同化主義は取
 らない。支配と被支配の関係はスペイン
の南米侵略の時代からイギリスのインド統治の時代まで白人種の異民族支配
 は
「神の命ずるところ」として正当化された。
 これに対して人種的差異を認めることの出来なかった日本のアジア支配は文明の優越性の根拠を持つことが出来ず、
 それを自国の建国神話によって補った。
「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」とはその表明である。
 「同化政策」とは武力を背景にした欺瞞の方法であり、恩寵の形をとるその差別と搾取はより徹底的であった。
  その間、日本人は「一等国民」という幻想に酔いしれ、熱狂した。これが「脱亜入欧」ということである。
  ベトナムのハノイで開かれた2回目の米朝首脳会談は物別れに終わったということだ。
 新聞によると、グテレス国連事務総長は、「結果にかかわらず、協議に注がれた努力を尊重する」と強調した。その上
 で「勇気ある外交が朝鮮半島の持続的
平和や検証可能な非核化の進展に向けた土台を築いた。協議がこの方向で続く
ことを期待する」と述べたということだ。
 1月31日のことだ。ドイツ連邦議会はベルリンの議事堂で、ナチス犠牲者の追悼行事を行った。
  ショイブレ議長は演説でドイツが歴史を「忘れない責任」を負っていると述べ、 次のように語った。


 「どんな国も、歴史をえり好みしたり、消し去ることはできない。歴史と向き合うことは、すべての国の未来の基礎だ。
 ドイツの罪によって、われわれは忘
れない責任を負っている」と述べた。

 もう一度韓国に戻る。

 1919年の3月1日に発表された「独立宣言」にはこう書かれている。
   
  吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。
  これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有
  せしむるとする。


 


    NO 9 

      「日本と朝鮮・海峡幻想」

  「天孫降臨」

   『古事記』の天孫降臨のところにニニギノ命の言葉として次のような記述がある。
  「この地は韓国(からくに)に向かい、かささの御前(みさき)にまきとおりて、朝日のただす国、夕日の日照る国なり。
  
ゆえ、この地はいとよき地とのたまわりたまいて、」、ここで言う「この地」(日向の高千穂)が何処であるかは九州
  王朝説と大和王朝説との二つの立場によって異なる。問題を解く鍵は、「この地は韓国に向かい」の一句だ。

   ニニギノ命は韓国(カラクニ)から海を渡ってきたのである。カラクニとは朝鮮南部にあった伽耶のことである。
  伽耶は鉄器と馬の産地であり、その源流は韓半島北部と満州地域で国を興した扶余(プヨ)である。高句麗も百済も扶余
  の流れを汲む国である。
  天孫降臨は日本特有の神話ではなく、
国の起源を、祖神の天上からの来臨に求める考え方は、北方アジア諸民族に広くい
  きわたっている。


  「最初の捏造」

   「皇紀」は、日本の初代天皇である神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)が即位したとされる年を元年(紀元)と
  する日本の紀年法で、「神武天皇即位紀元」ともいう。西暦に換算すると紀元前660年ということになるが、これは弥生
  時代早期または縄文時代末期にあたる。
  『日本書紀」によれば神武の在位は76年に及び、3月11日に127才で崩御したという。『古事記』では137才。
    大正時代、津田左右吉は記紀の成立過程に関して文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ「神武天皇は弥生
  時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正当性』を付与する意図をもって

  編纂された日本神話の一部として理解すべきである」と発表した。
   『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』の中の烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称であるが、これは西晋の陳寿によって3世
  紀末(280年)に書かれたもので、中国では正史として重んじられた。この中に大和朝廷とか天皇という言葉はない。朝鮮
  南部から北九州は倭人の国である。

    網野善彦(1928~2004)の『日本の歴史を読みなおす』(筑摩書房・1991年発行)の第5章「天皇と『日本』
  の国号」から書き写す。195頁。

     大宝律令のできた701年に遣唐使が中国大陸に行くのですが、その時の使いは「日本」の使いであると唐の役人に言っ
  ています。つまり「日本」という国号も、これまで推古朝とも考えられていましたが、やはりこれも最近の説では7世紀の
  後半、律令体制の確立した天武・持統のころ、天皇の称号といわばセットになって定まったと考えられます。これも大変大事
  な点で、このときより前には「日本」も「日本人」も実在していないことをはっきりさせておく必要があります。その意味で
  縄文人、弥生人はもちろんのこと、聖徳太子も「日本人」ではないのです。

      「大和朝廷の蝦夷観」

    景行天皇に仕えたとされる竹内宿禰(たけのうち すくね)は北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。
   その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と天皇に進言
   した。ただし、景行の実在は疑わしく、竹内は伝説上の人物である。

    ただ、この挿話で分かることは、大和朝廷が日本列島の先住民族を異族として見ていたということだ。これは大和朝廷が日本の外から侵略して
   きた征服王朝であったことを物語っている。

    江上波夫(1906~2002)の『騎馬民族国家』(中公新書)は、戦後、皇国史観の束縛から解放された学会で発表されたものだが、この説は日
   本古代史上の仮説として学会でも激しい論争を呼び起こしたそうだ。

   今、読んでみても教えられるところは多々あるけれども、至るところで想像力が先行している感はある。第一に、騎馬民族の定義が曖昧であり、拡
   大解釈が過ぎる。

        「陸奥国の新羅人」

    前九年の役(1051~1062)に登場する金氏という豪族の長は金為行(こんのためゆき)といい、気仙沼から磐井郡一
  体の土着の有力者である。その娘は安倍貞任と結婚した。もちろん閨閥形成の政略結婚であるが、これによって金氏は安倍氏流
  金氏となる。一説には、千世童子の祖父の可能性もある。出自については、新羅王族の金姓であり、武蔵国埼玉郡の新羅人で天
  平5年(733年)に金姓の賜姓を受けた金徳師の子孫とされる。これ以上のことは分らない。
   金為行の名を知ったのは高橋崇さんの『蝦夷の末裔』(中公新書―1041)によってだが、武藏国には早くから渡来人が住み
  着いていたのだろう。

         「輩行名」

    日本昔話といった絵本を開くと金太郎とか桃太郎とか浦島太郎とかいう名前が出てくる。太郎というのは男性の名で本来は
  長男を意味する輩行名である。「輩行」とは一族のうちの同世代の者ということで、通常は兄弟のことをいう。
   例えば、源義家の八幡太郎、源義綱の賀茂二郎、源義光の新羅三郎といった兄弟の通称がそれであり、また九朗判官源義経
  や鎮西八郎源為朝といったものもある。そして、何故か大きな河にもこの名前が付く。坂東太郎は利根川のことであり、筑紫
  二郎は筑後川のことであり、四国三郎は吉野川のことである。

    奥州十二年合戦の主役の一人である源頼義は河内源氏の二代目棟梁であるが、その三人の息子に「八幡」「賀茂」「新羅」
  の通名がつくのはそこがそれぞれの元服を祝った神社であるからだが、その三社は渡来系である。もっとも渡来系でない神社
  信仰などというものはないのだが。因みに、「八幡」とは「秦氏」の多い土地という意味である。秦氏は新羅系の渡来人であ
  り、京都周辺に多くの拠点を持っていた。

 

          「海東諸国記」


    1471年、『海東諸国記』は李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(シン・スク チュ)が日本国と琉球国の歴史・地理・風俗・
  言語について克明に記述した
史書。日本については次のように書いている。

    日本は最も久しく、其つ大なり。其の地は黒龍江の北に始まり、我が済州に至り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。その初
  は、処処に衆を保ち、おのおの自ら国をつくる。周の平王四十八年、其の始祖の狭野は兵を起こして誅討し、初めて州群を置く。
  大臣おのおの占めて文治するも、中国の封建のごとくは統属甚しからず。習性は強悍にして剣槊(武術)に精なり。舟楫に慣れ、
  我れと海を隔てて相望む。之を撫するに其の道を得ば、則ち朝鮮は礼を似てし、其の道を失えば、則ち輒ち肆に剽窃せん。

    申叔舟は、病により死に臨んで、「願わくは国家、日本と和を失うことなかれと朝鮮国王成宗に遺言したのは有名である。

         「大蔵経」

   文明14(1482・李朝朝鮮-成宗13)4月丁未、朝鮮国王のもとへ、日本国王(足利義政)使とともに夷千島王の使者もやっ
 てきた。

  南閻浮州東海路夷千島王遐叉というのが名義人で、その使者は、朝鮮国王殿下に書を呈し、朕の国には元々仏法が無く、日本
 と通交するようになって以降仏教が伝来し三百年余りとなったこと、大蔵経が日本にもないので欲しいこと、夷千島国は西辺で
 朝鮮辺境の野老浦と接しているので野老浦が朝鮮王に反逆した際は征伐できること等を伝えた。
 進物は「馬角一丁、錦一匹、練貫一匹、紅桃色綾一匹、紺布一匹、海草昆布二百斤」。

  夷千島王とは誰なのか、アイヌの部族長説、日ノ本将軍・安東氏説、対馬島人説、偽使説といろいろあるが、それが誰であろ
 うと、この時代の日本の国内の諸勢力から観て朝鮮は文化的先進国であったことは確認できる。

     ※  馬角とはトナカイの角のことである。

 

         「耳塚」

   1592年、太閤秀吉の朝鮮出兵。 この年のものを「文禄の役」、1597年から始まるものを「慶長の役」と言う。朝鮮では「壬申倭乱」「丁酉
  倭乱」と呼び、中国では「抗倭援
朝」と言う。
  「耳塚」、京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で「鼻塚」とも呼ばれる。秀吉の朝鮮出兵で、戦功の証として朝鮮・明国の
 兵士(一般人も含む)の耳や鼻
を塩漬や酒漬にして持ち帰ったものを葬った塚。

      「誠信の交わり」

  雨森芳洲は江戸時代中期の儒者。対馬藩の外交官。新井白石・室鳩巣とともに木下順庵門下の五哲と呼ばれる。61歳の時、
  芳洲が藩主に上申した対朝鮮外交の指南書『交隣提醒』の中に書かれていること。「朝鮮交接の儀は、第一に人情・時勢を知
  り候う事、肝要にて候う。互いに欺かず、真実を以って交わり候を、誠信とは申し候う」。秀吉の朝鮮出兵を「無名の師(名
  分のない戦争)」と批判した芳洲は次の言葉を遺した。

 「国のたふときと、いやしきとは、君子小人の多きとすくなきと、風俗のよしあしとにこそよるべき、中国にむまれたりとて
  、ほこるべきにあらず。また夷狄にむまれたりとてはづべきにしもあらず。」

 

    「神国妄想」

  吉田松陰(1830~1859)は、長州藩士の討幕論者。私塾「松下村塾」の塾長。弟子に久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、
  前原一誠、品川弥次郎、山田顕義等々。 その著『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸
  侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮
  を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」
  と記し、北海道の開拓、琉球の日本領化、朝鮮の属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。「征韓論」「八紘一宇」「大東亜共栄
  圏」の原型である。

 岸田秀著『ものぐさ精神分析』(青土社・昭和52年発行)は、精神分析の手法で日本の近・現代の病巣を解明したものだが、その13頁か
  ら少し書き写す。

  皇国史観はまさしく誇大妄想体系である。分裂病者が現実の両親を自分に生命を与えた起源として認めず、神の子であるとか、皇帝の
  落胤であるとか称する(血統妄想)のと同じように、天皇の万世一系が信じられ、日本文化の独自性が強調され、日本文化における朝鮮や
  中国の文化の役割は不当に過小評価された。日本の古代史は現実の歴史であってはならなかった。神話こそ真実でなければならなかった。
  はたからはどれほどおかしな、不合理なものに見えようとも、妄想体系は維持される。内的自己の独自性を支えるためには必要だからである。

     「乙末事変」(いつびじへん)

 1895年10月8日(明治28年)長州出身の韓国駐在公使・三浦悟桜は公使館員や浪人を王宮へ侵入させ、韓国皇后である
 閔妃(みんひ)らを殺害し、死体を焼き払った。現場で指揮を執ったのは元紀州藩士・岡本柳乃介である。この事件は一国の公使
 が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。その後、三浦は長州閥の軍人として優遇され、晩年には
 枢密院顧問となっている。岡本は上海で客死した。

 

     「韓国併合」

 1910年(明治43年)8月29日、大日本帝国が韓国帝国を併合し植民地とした。この後、日本による朝鮮半島の統治は大日
 本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も支配は厳密には続き、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が降伏文書に調
 印するまで実質的には36年間続いた。

地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く

石川 啄木 明治43年9月9日 「9月の夜の不平」八首から

     「関東大震災朝鮮人大虐殺」

  大正12年(1923年)、関東大震災の混乱の中で、官憲や民間の自警団などにより多数の朝鮮系日本人及び朝鮮人と
  誤認された人々が殺害された。犠牲者の正確な数は不明だが、震災全体の犠牲者の1~数パーセントが殺害によるものと推
  定される。一説によれば、6000人とある。また朝鮮人犠牲者以外にも社会主義者や無政府主義者も殺害された。大杉栄、
  伊藤野枝、などの無政府主義者、社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きた。

  芥川龍之介は「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め
   殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判し、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する言葉を書いた。

      「力士漂泊」

   宮本徳蔵(1930~2011)さんは三重県伊勢市で在日朝鮮人として生まれ、日本人夫婦の養子となり、東京大学文学
  部仏文科卒業後、小説家・随筆家となった人である。宮本さんの書いた随筆集『力士漂泊』(小沢書店・昭和60年発行)、
  そこにはこんなことが書いてある。

   チカラビトの彷徨は、ほとんどその誕生と同時にはじまる。この広漠たる地域を吹きすさぶ冷たい朔風に乗るようにして、
  東へ、さらに南へと限りもなく流れてゆく。その足跡は、江上波夫のとなえる遊牧騎馬民族の大移動の方向とおおむね一致し
  ている。【中略】ともあれ5世紀はじめになると、すでに鴨緑江のほとりにいる。高句麗の旧京であった丸都(がんと)、今
  では中国吉林省集安県となっている片田舎にひとつの古墳があって、角抵塚と呼ばれている。角抵とは相撲のことで、チカラ
  ビトはそこの地底深くにえがかれた壁画のなかで得意の技を披露している。【中略】今年(1985)の早春、第六回天下壮
  士シルム大会を観戦するために、わたくしはソウルにいた。シルムは韓国語で相撲をさし、チカラビトには日本のように力士
  の字を当てず、壮士と表記している。天下壮士というのは要するに、横綱といった称号である。【中略】文献にはじめてあら
  われるのは、皇極天皇元(642)年である。秋7月、百済国から智積(ちしゃく)という者が大使としてきたが、そのとき
  飛鳥の宮廷の庭において、かねて日本に滞留していた百済の王子
翹岐(ぎょうき)とともに、チカラビトの演じる相撲を見た
  という。【中略】チカラビトは朝鮮からツクシ(北九州)に上陸したあと、そこで道を二手にとって進んだ。主力は真東に、
  ヤマトの中心をめざしたが、そのまま南へとくだり、薩摩、大隅、薩南諸島をへて琉球へ行ったものもあった。高句麗、新羅
  の流れは近年にいたって力道山、玉乃島(三代目・玉ノ海)、三重ノ海をつぎつぎと生み、ツクシの第一人者はもちろん双葉
  山だ。先代朝潮、若島津はハヤトの血脈をまざまざと伝えている。
    宮本さんにはもう一冊『相撲変幻』(ベースボールマガジン社)という随筆集もある。相撲はその源流にあっては、先ず格
  闘術であった。高麗技とは戦場における戦闘技術であった。次いで、戦乱の世が治まると五穀豊穣を祈る興業となった。明治
  42年(1909年)、東京・両国に初めての相撲常設館が完成したとき、その建造物を「国技館」と命名した。ただそれだ
  けのことである。従って、今も興行である。

   「ヘイトスピーチ」

   ウイキペディアによれば「ヘイトスピーチ」は次のように定義づけられている。

   ヘイトスピーチ: hate speech憎悪表現[は、人種、出身国、民族宗教性的指向性別容姿健康障害)、趣味や愛好
   カルチャー(エモ、ゴスやパンクなど)など自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃
   脅迫侮辱する発言や言動のことである。日本語では「憎悪表現」の他、「差別的憎悪表現「憎悪宣伝」、「差別的表現」、「差別表現」
   「差別言論」「差別扇動」「差別扇動表現(差別煽動表現)」などと訳される。

   「国連規約」 19651221日に国連総会で採択されたあらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)は、
   その第4a項において「人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは
   種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対
   する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること」、またb項で「人種差別を助長し及び扇動
   する団体、及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を、違法であるとして禁止するものとすること」と明記している。

  日本敗戦後、日本列島在住の朝鮮半島からの人々は200万人ぐらいいたと推定されるが、このうち約60万人の人々は日本にとどまった。
  人によってその事情は異なっただろうが、全般的に見るとすでに植民地時代、つまり法的には日本人であった時代に、たとえ貧しかったとは
  いえそれなりの生活基盤を日本に築いた人々が、あるいは言葉を変えていえば、朝鮮半島の方に生活基盤がなくなった人々が、日本敗戦後
  にそのまま居住することになったのである。

原尻英樹著『「在日」としてのコリアン』(講談社現代新書)

  「在日特権を許さない市民の会」という団体がある。代表は桜井誠(本名・高田誠)。市民団体というがその運動は極めて暴力
  的だ。「朝鮮人は日本から出ていけ」などのヘイトスピーチはナチスドイツ下のユダヤ人排斥運動を真似たものだそうだ。日本
  の右翼の源流である頭山満、宮崎滔天、北一輝などが唱えた大アジア主義にはこうした狂信の排除の論理はなかった。とすると
  「在特会」は右翼ではないということになる。現に、民族派右翼「一水会」の代表である鈴木邦男は辛淑玉の依頼により、ヘイ
  トスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワークの共同代表に就任している。

   「北東アジア平和構想」

   2016年9月3日、マレーシアのクアランプールで開かれたアジア政党国際会議第9回総会の会場で、日本共産党の志位和夫委
  員長は「北東アジア平和協力構想」について次のように語った。

  「アジアはきわめて豊かな多様性をもつ大陸です。政治・社会体制、経済の発展段階、文明など、たいへんに多様です。そうした違いを互いに
  尊重し、共存と協力をはかり、全体を包括する方向をめざすことが大切だと思います」。

 


 
     NO 10

    『アリラン』

  作詞 瑞穂 豊   作曲 朝鮮半島民謡

1 アリラン アリラン アラリヨ
  アリラン峠を 越えて行く
  私を捨てて 行く人は
  一里も行かずに 足が痛む

2 アリラン アリラン アラリヨ
  アリラン峠を 越えて行く
  晴れた空には 星も多く
  おいらの胸には 夢がいっぱい

3 アリラン アリラン アラリヨ
  アリラン峠を 越えて行く
  あそこの山が 白頭山だよ
  厳しい冬でも 花が咲く

  『トラジ』とともに朝鮮民謡を代表する曲。南北朝鮮はもちろん、中国領内の朝鮮族の人びとにも愛唱さ
  れてきました。 発生の時期は明らかではありませんが、大院君
(興宣大院君)が摂政をしていた李朝末期
  だという説があります。
   すなわち、1860年ごろ、傾き始めた朝廷の権威を回復するため、秀吉軍による侵略
(壬申倭乱)で焼け落
  ちたままになっていた王宮・景福宮を再建しようと、大院君が全国から大工や人夫を強制的に徴集しました。
  そうした男たちの身を案じた妻や恋人たちが歌い出したのが始まりだというのです。1番の歌詞には、そん
  な女性たちの気持ちがよく表れています。また、アリランの意味や語源については諸説あり、確定したものは
  ありません。朝鮮半島の何か所かにアリラン峠という地名がありますが、これはこの歌が広まってからつけら
  れたものとされています。 歌詞については、全羅道の珍島アリラン、京畿道のキンアリランなど、地方色を
  反映したアリランが80以上もあるといわれています。

   少なからぬ韓国人たちが信じているという「『アリラン』は世界で最も美しい曲の1位に選定された」は、眉唾
  ですが、それでも『アリラン』が世界の民謡のなかでも美しい曲の1つであることにまちがいはありません。かつ
  ての歌声喫茶でも、よく歌われました。

     (二木紘三)

     ※ 「トラジ」は朝鮮語では「桔梗」のこと。

 

 
     NO 11

 

鳳仙花

  別名はツマクレナイ、ツマベニ(爪紅)、骨抜(ほねぬき)、沖縄では「てぃんさぐ」と言う。韓国ではポンソンファと言う。

花言葉 「私に触れないで」「我慢できない」

 

                                       

  あらゆる法秩序のもっとも根底的で基本的な関係は、明らかに、目的と手段との関係である。そして暴力は、さしあたって
  は目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見出される。【中略】たとえ正しい目的のための手段にもせよ、一般に、
  暴力が原理として倫理的であるかどうか、という問題は依然として残る。

ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』

 

2019年 呼びかけ人

   塩谷昭子、吉原宏、小坂利幸、小坂亨子、村上テル子、福盛田恵美子、福盛田勉

  山本 正、島田敦子、伊藤史子、垂石 豊、曽川伸晃、作田信子、阿部祐二、

 大坂喜美男、中本雪人

 

        顧問  尾張 正、 五十嵐公人

星置9条の会  事務局連絡先
 

  福盛田 勉  685-6763 

 

2019年3月17日



 「ご案内」        
     星置
9


     第41回学習交流会

   「金山鉱山と朝鮮人強制連行」
               
        講師 小松 豊 氏  「札幌郷土を掘る会」代表

   

  「手稲山は、かつて金銀銅などが採れる鉱山として、活気にあふれていました。最盛期には
  手稲の人口の約4分の1
が、鉱山周辺に集まり、鉱山村といわれるほどでした。産金量全国
  2
を誇った時期もあり、手稲鉱山は、手稲だけでなく、わが国の発展をも支えていたのです。
   最盛期を迎えると従業員数は約2千人に膨れ上がります。星置川や滝の沢川に沿って1,2
  00
戸あまりの社宅
が建ち並び、学校、病院、郵便局、交番も建設され、鉱山地域だけで1
  のまちが形作られていました。」
(手稲区HPより)

    金山鉱山(手稲鉱山)には、戦争による労働不足解消のため、多くの朝鮮人労働者も働か
 せられていました。その実態を講演いただきます。

    日 時:2019317日(日)14時~16

   会 場:星置地区センター(資料代:500円)

   講 師:小松 豊(札幌郷土を掘る会・代表)

   音 楽:オカリナ演奏 山本正

    主 催:星置9条の会(事務局:福盛田;電話685-6763

 


冬の詩

慈父悲母

2018年12月15日・土曜日  

 

   日に日に寒くなってきましたね。
    みなさん、お元気ですか。
    今日は星置9条の会の呼びかけ人である福盛田勉さんのフェイスブックから詩を二編お届けします。
   「父の従軍証明書」「母の戦争体験」、お読みください。
   此処にあるのは、記憶の風化に対する抵抗、決して報われることのなかった或る時代に対しての哀惜と郷愁です。
  しかし、これは一個人の「詩と真実」に留まるものでは有りません。私たちの過去なのです。

   父母のことを想い出すことは愛育された年月の中に数限りなく見つけることが出来ますが、それ以前の、父母が
  まだ少年もしくは青年であった時代となると記憶には何も残っていません。本人がまだ生まれていないのですから。

   しかし、それが何であったかを知ることはできます。
    遺品や形見の品もしくは生活の名残りというものです。父母が遺した手紙や日記の断簡零墨の類、または愛読し
  ていた本やお気に入りの文房具や裁縫箱といった小道具や、晴れの日の衣装、そうした「捨てきれぬもの」を手に
  取ることによってその時代を生きた人たちの日々の喜怒哀楽を知ることができます。

  「捨てきれぬもの」とは、その人がその人自身であったことを証明する絶対的な証(あかし)です。この沈黙の告白は、
  多分、ポエジーと呼ばれるものです。
   私が福盛田さんの書いた文章を「詩」と呼ぶ理由は、これです。
    我が友勉さんは、その発言において、またその文章において、常に蛇足・余談・漫談の饒舌を排し、物事の本質が
  何であるかを明示し、そして追求する極めて論理的な思考の人間です。勉さんのそうした姿勢からは学ぶことが多く、
  私の方が2歳ほど年上だと思うのですが、どうも立場は逆転していて、恥ずかしながら有り体に言えば、この友情は
 「愚兄賢弟」としか言いようのないものです。

  福盛田さんの父母がまだ若かった時代というのは、「憲法9条」が無かった軍国主義の時代でした。

 

福盛田 勉さん  フェイスブック

 

物事を論理的に追求し、倫理的に判断する。

その語るところ、常に簡潔にして明解。

写真は諸国見聞録・イタリー編

エッセー「捨てきれぬもの」

        詩の誕生するところ

  縁側のうららかな春陽にまどろむ老婆の追憶や感懐がどんなに個人的なものであったとしても、
 それをとるに足りないなどとは誰も言えぬはずである。作家が自叙伝を書くように、彼女は、うた
 たねの夢に、自分の人生を再生確認しているのだから。
   人はそれぞれ、他の者にはどんなにつまらぬガラクタと見えようとも、捨てきれぬ何かを持ってい
 る。その「何か」なしには、人は生きられない。そしてこの「何か」が、多分、さまざまな倫理観、
 宗教的心情、そして詩(ポエジー)の世界と結びついているのであろう。

        文・原 薫 (はら かほる)

          昭和41年3月16日
                          知床の新聞「捨聖堂瓦版」から

星置9条の会・事務局
                    
                              編集責任  中本雪人
 

2018127日 Facebook投稿記事・写真から(福盛田勉)

 

   父の従軍証明書と召集解除証明書がでてきた。

   

 

  父は鉄道兵・陸軍二等兵だった。昭和十六年四月一日日給八十五銭の工場技工見習として札幌鉄道局に採用。
 19
歳で徴兵検査をうけるが体重不足で「丙種」合格。即入営はなかった?

  昭和201月から本土決戦準備のため、国民ねこそぎ動員(150万人規模)の「本土決戦師団」編成開始。
  父は第十五独立鐵道作業隊(隊長大尉以下約1000名)の1人として「召集」され、昭和208月、函館五稜郭小学校に
 駐屯。本州への輸送船待ちだったと聞いた。「つるはし」と「スコップ」が主な装備の鉄道兵の輸送順番は遅かった?

  71415日北海道全域を襲った、アメリカ海軍艦載機の空襲は、青函連絡船全12隻が沈没・大破で移動手段は既に無
 かった!!

 北海道にいたので、早々に故郷に帰還できた。
  関西学院大学の渡邊勉先生の「誰が兵士になったのか(1)」(関西学院大学社会学部紀元要第119号)によれば「アジ
 ア・太平洋戦争時には、700万人以上もの国民が兵士として戦地に送り出され、またそのうち200万人近くが戦死したので
 ある。終戦時に軍隊に籍をおいていた者は全人口の18.6%,20歳から40歳までの男子人口に対する割合では60.9%にも上る)
 多くの若者が地獄を見たのだろう!
  財布の日本領土に注目!

   


   台湾、朝鮮、樺太、千島列島は国土として赤い刺繍!軍旗に似た朝日と戦闘機が戦中らしい。
「のぽる」は父の名。紙幣は、日給85銭の鉄道員には貴重?!

  兵士になれない若者を「非国民」と称した時代の再来を許してはならない!戦争はいかん!
  死後14年目にして父の戦争体験の証拠を見た

  明日(8日)は真珠湾攻撃、米国と戦争に突入」した、絶対忘れてはいけない日!

 
 


今回は母からの伝言投稿。先の北海道地震で江別の実家は一部損壊となり、建替えが必要になった。母は脳疾患で寝たき
 り14年経過中であり、戻る事の無い実家解体と終活を完了した。

戦前動員された母の「健康保険被保険者證」が出てきた。

   


   交付年月日は昭和19322日、事業所は王子航空機株式会社江別製作所。

  木製戦闘機キ106(四式戦闘機キ84「疾風」を木製化)の製造工場、元は製紙工場!

    (鹿児島県知覧平和館で動態保存の「疾風」。写真は米国保存時)

   母の語りを、蔵書で追認した。

   1.女子挺身隊員で食堂勤務していた。  戦闘機も兵隊も消耗して、国民ねこそぎ動員!「昭和19418日幼年工入所式、
 国民学校高等科化卒業の男女会わせて1000名満14歳」「終戦時には3783名が働いていた。大人も女学校、中学校生徒も含ま
 れる。江別女学校34200名。女子幼年工300名は、東は千島の国後島、北は稚内、南は函館北海道全域から!利尻島から
 も3名」、母は16歳だったので、3月に動員された?

 

 

 
 (「木製戦闘機キ106」の王子航空機江別製作所構内略図に勤務場所「食堂」マーク;右側中央)

 

   2、飛行服に憧れた?
    飛行兵は特別食事で銀シャリ、肉等豊富なものだった。
   昭和20611日憧れのテストパイロット大野嘉明は木製戦闘機第一号機を女子挺身隊員、動員学生等2000人が見守る中、
  江別飛行場から丘珠飛行場へと飛びたった。815日までに完成したのは3機だった。

   いずれも試験飛行中で実戦参加は無かった!!

      3、工場に空襲があり、1名殉死した。顔みしりなのでショックだった。
        715日、江別町は早朝から三波の空襲があり、午後3時時過ぎ、艦載機グラマンF6F-5「ヘルキャト」4機からロケット彈
     4
発と機銃掃射を受けた!目標のボイラー室はそれ、2発は不発、運悪く部品管理室で1名殉死、1名負傷。「明日への伝言」
     の北海道空襲の被害状況一覧表によれば、江別市は死亡者数4、重軽傷者数8、損壊家屋0となっている。室蘭や根室等三桁の
    犠牲が出た!

      71415日の空襲は、菊地慶一「あの子たちがいた七月」によると、「一九五八人の死者とされてきましたが、最近の研究
   (山本竜也さん)で二九〇〇人をこえる犠牲者がいることがわかりました」「子供の死者は〇才から十歳までが一〇二人、
   十五歳までが二二八人となっています」

     多くの一般市民や子供の命をうばう戦争は二度としてはいけない。
   青春を戦争でうばってはいけない。インターネット上に木製戦闘機の記述が沢山有ります。
   女子挺身隊の投稿も多いです。


       



   ①田中和夫著;木製戦闘機キ106:叢書江別に生きる4(江別市・江別教育員会)②夏堀正元著;木製の飛行機(実業之日本社)③「戦争体験(戦場と銃後)の記録
   」編集委員会編;

   戦争体験(戦場と銃後)の記録 明日への伝言―戦火を生き抜いた31人の証言―(北海道高齢者9条の会、札幌北区9条の会)
  ④菊地慶一著;あの子たちがいた七月-一九四五年北海道空襲(共同文化社)

 



          星置条の会

 

第40回交流会

「みんなで平和を

語り合う望年会」

星置9条の会の歩み

2005年3月5日~2018年12月2日まで

今、言わねばならぬこと、今、聞かねばならぬこと、

そして、今から、此処から、私から。 

 
 

           2018年12月2日・日曜日

午後2時~4時

星置地区センター

参加費 1000円

       プログラム

      司会   塩谷昭子

1 日本国憲法(第9条)朗読  中本 雪人

2 開会の挨拶(乾杯の音頭) 吉原 宏

3 自由討論(フリートーク) 

4 アトラクション

       オカリナ演奏  山本 正

5  閉会の挨拶    福盛田 勉

添付資料  

1、「星置9条の会」の歩み

      2005年3月5日~2018年12月2日まで

2、 活動紹介

     作田信子さんのフェイスブック

     福盛田 勉さんのフェイスブック

     中本雪人さんのホームペイジ

3、 時評  中本雪人

     1 「自己責任について」

     2 「地位協定について」 

     3 「徴用工とは何か」

4   「結び」の言葉


主催 星置9条の会

           事務局連絡先  中本 雪人   681-9233

                     福盛田 勉   685-6763

 
       

   札幌手稲区星置9条の会にお邪魔しました。2005年に9人でスタートして13年。毎回9条の朗読から始まり、講演と文化を大切にして
  今日40回を迎えたそうです。その豊かな活動が冊子にていねいにまとめられていました。今日は、参加者一人一人が自分の言葉で
  語る「私と憲法」のスピーチが素晴らしかった。「9条」を輝かせるために、一人ひとりが暮らしの場所から、平和を願い、出来る事を一
  生懸命重ねている事が良くわかり感動しました。オカリナ演奏を味わい、9条を守り生かす決意を固めた望年会でした
         
              佐々木明美さんのフェイスブックから





       ていね「九条の会」連絡会発足記念  終戦記念の付き8月の学習会

          2018年8月4日・土曜日    手稲区民センター

  
    
 平和憲法に何を問われているか?
          ~「しない平和」と「する平和」~

講師

明神(みょうじん) (いさお)(道教育大名誉教授)さん

    「3000万署名」の意義

  百万の署名は、戦争放火者を激怒させるだろう。
 千万の署名は、かれらを混乱させるだろう。
 そして、億の署名は、かれらを沈黙させるだろう。


    イギリス国教会宣教師  ヒューレット・ジョンソン(1874~1966)の言葉




   
 ※   会場設営  福盛田、柴田、片山、長谷川
          受付     坂口、中本、村本、
          記録      平山
          写真      片山


  プログラム
                    司会  (平山 雄三  前田九条の会)
    13:00~13:35    開会挨拶  (柴田義行  ていね「九条の会」連絡会代表)

 
    13:35~13:40    講師紹介    (坂口 勉   前田九条の会)
     13:40~15:10     講演
    15:10~15:15     休息
    15:15~15:45    質疑。応答
    15:45~16:00      閉会挨拶  (長谷川節子  稲積地域九条の会担当)

     ていね「九条の会」連絡会加盟団体
  (地域)星置九条の会、前田九条の会、鉄北九条の会、稲穂九条の会、曙・山口九条の会、稲山九条の会、
  富丘九条の会、西宮の沢九条の会、稲積九条の会、本町九条の会、新発寒九条の会。

  (職域)勤医協あけぼのセンター、医療九条の会、新婦人、機関紙印刷、年金者組合。

     




          ていね「九条の会」
                                     2018年7月3日

   
  今を生きるすべての人々が
 戦争と平和
  について
 こぞって考える

  
暑い8月
  がやってきます
 


         手稲区の地域・職場で活動をつづける「九条の会」が
          初めて 共同で学習会 を持ちます


    「明治150年」「北海道150年」とはやされる
     その半分は「戦争」 あとの半分は「平和」
        その境目が1945年8月




               学習テーマ
     平和憲法に何を問われているか?
        ー「しない平和」と「する平和」一


 

講師

明神(みょうじん) (いさお)(道教育大名誉教授)さん

 


     日 時 2018年8月4日(土)13301600

会 場  手稲区民センター第1・2会議室

参加券  500(前売券を各九条の会で扱っています)

     主 催  ていね「九条の会」連絡会

代表:柴田義行(新発寒九条の会) 090-3391-4872

 


  NO 1
      
星置条の会

       「私と憲法」

みんなで語ろう。

今、言わねばならぬこと、今、聞かねばならぬこと、

そして、今から、此処から、私から。

   

 

第39回交流会 

「対話と文化のつどい」

 2018年6月17日・日曜日  午後1時~4時

 星置地区センター  2条3丁目14番1号

   交流費 500円

 

 

 

憲法9条

  (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又
    (また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

      主催 星置9条の会

代表  五十嵐 公人  685-5596

    事務局長  中本 雪人   Nakamoto.y@outlook.com

 

 

    NO 2

    

星置9条の会     

第39回交流会 「対話と文化のつどい」

みんなで語ろう。

今、言わねばならぬこと、今、聞かねばならぬこと、

そして、今から、此処から、私から。

     プログラム

司会  福盛田恵美子

  1  開会の挨拶     五十嵐 公人

  2  日本国憲法(第9条)朗読   中本雪人

  3  アトラクション     フルート演奏  塩谷 務

  4  朗読 向田邦子作「冬の運動会」より  吉原 美智子

5  お話 「私と憲法」 五十嵐 公人

  6  憲法をめぐってのフロアトーク  進行係・塩谷昭子

  7  合唱「憲法9条五月晴れ」

  8  閉会の挨拶   吉原 宏

 

添付資料」

 

   1  「時代の目撃者」

  2  憲法記念日  5月3日

  3  向田邦子さんのこと

  4  平和大行進  5月19日

  5  3000万署名 5月23日

  6  幣原元首相

  7  幻の「大島憲法」

   8  日本の近・現代

   9  「醜悪の系譜」

  10  私論「暗夜の一燈」

  11  イマジン

   12  吉原談話

 

 

  時代の目撃者

  五十嵐 公人

1936年(昭和11年)7月2日、増毛町歩古丹(アユミコタン)に生まれる。父親は僻地の教員。

終戦時は滝下国民小学校の2年生。

    星置9条の会・代表

 

 私はここに五十嵐さんの履歴書を書き写そうというのではない。

ただ昭和11年に生まれた男が目撃してきたものが、彼のその後の人生にどのような影響を持つことになったのか、
逆に言えば、目撃した様々な事件から彼が何を選び取ったのかということに少なからずの関心を持つだけである。

 オビヤのタップ炭鉱では囚人労働が行われていた。帝国の国策である。そこには多くの中国人、朝鮮人がいた。
強制連行である。ある日囚人は脱走した、しかし直ぐに発見され、捕獲され、拷問(リンチ)を受けた。

これが少年が見た最初の暴力である。
 1954年9月、彼は深川西高校の3年生であった。そこで「あゆみ会事件」を体験する。偽りの報道に対して
「あゆみ会」の部員の男子生徒が抗議の自殺をした。その生徒は教育の現場に介入した暴力の犠牲者である。
1960年、彼は北海道教育学大学の学生であった。そして全学連の闘士であった。青年が目撃したものは、国家
権力という名の強大な暴力装置である。彼の人格形成の節目には必ず暴力の目撃が付きまとう。しかし、このことは
必ずしも彼に固有の体験というわけではない。彼が目撃したものは、彼以外の多くの人も目撃しているのである。
ただ、違いはそれを意識化できたかどうかということである。ここからは個人の倫理観の差異でしかない。

この人間が暴力を乗り越えるものとして何を発見したのか、憲法である。
権力を縛り、あらゆる暴力を否定する、立憲主義に基づく憲法である。
「法の精神」とは何か、このことを自らに問い続けること、これが一つの稀有な人生の形をつくった。

    「物曰ふなら、声低く語れ!」

                      ミケルアンジェロ 
  

 

 
     NO 3

     「憲法記念日」   2018・5・3 

     アベは辞めろ !
      今すぐ辞めろ ! 
      さっさと辞めろ !
      それが世の為、人の為、世界の為だ

  


    挨拶をしているのは平 和子(仮名)さんだ。正面の白い幟を持った赤ジャンパーは僕だ。
   本多平直さんがいるよ。佐々木明美さんがいるよ。
   幟は手稲区民の会、市民の風・手稲、国民救援会、手稲行動LAST、新発寒9条の会、星置9条の会、前田9条の会、
   新婦人手稲支部、年金者組合手稲支部、共産党、社民党、立憲民主党。
   
   


   「平和憲法護り抜け!5.3ていねアクション!午後1時には雨もあがり、風はありましたが暖かくときどき青空も見え、
   スタンディングとパレードにはちょうど良い感じでした。メインゲストの平和子さん(仮称)のスピーチから始まり市民団
   体や参加議員のリレースピーチ、全員によるコール。その後道行く車や通行人の方々に憲法守れ、平和を守れ、人
   権守れ、戦争するな!とコールをしながら商店街通りをデモ行進をしました。
   風にあおられながらでしたけど気持ちよくやれました。それが終わって平さんを囲んで交流会。コーヒーとどら焼き美味
   しかったぁ~。お疲れさまでした。」


                  作田 信子さんのフェイスブックから
                                星置9条の会 呼びかけ人 



        「5・3集会 開会あいさつ」

               ていね区民の会 共同代表 國中ひろむ
                               新発寒9条の会 事務局長

   今日は71回目の憲法記念日になります。
  私はこの70年、憲法に守られて生きてきました。私がこの70年を振り返ってみても、憲法がこれほどまで汚され、傷つけられ、
  踏みにじられたことはかつてありません。
   それは、この憲法を嫌い、罵り、憎み、あざける安倍晋三という政治家と、それに追随する政権与党(自民党、公;明党)と補
  完野党勢力による強権政治のせいであります。
   第1次政権の時の教育基本法改悪、第2次政権では秘密保護法、戦争法、共謀罪と強行し、今年になってからは、労働時間
  データの改ざん、森友文書の財務省ぐるみの改ざん、加計疑惑の首相案件、防衛省日報隠蔽、幹部自衛官の暴言、前川喜平
  氏の授業への介入、財務事務次官のセクハラ問題…と底なしです。
   憲法の平和主義も、基本的人権も、議会制民主主義もアベ政治の泥足で踏みにじられ、主権在民の民主主義国家であるは
  ずの日本が、ぐちゃぐちゃにされています。
   首相は責任を問われても、部下に責任を押し付けて逃げ回るのに必死です。(ある方が言っていました。)口のまわりをアンコ
  だらけにして、「ボクがお饅頭を食べたって? 誰にも見られてないよ」としらをきる。彼には良心というものがあるのでしょうか。
  胸に手を当てて、良心に照らして恥じることがないと言えるのでしょうか。
  こんな卑怯で、破廉恥で、嘘つきで、人間性にかける、愚かな人物に日本の政治を任せるわけにはいきません。
  子供たちの道徳教育によくありません。この人物に憲法を変えるなどという資格はありません。この人物を総裁に担ぐ自民党に、
  改憲発議をさせるわけにはいきません。
  全ての問題はアベ首相の責任です。市民と野党が結束を固めて、アベ政権打倒へと声を上げていきましょう。

 

    

     向田邦子(ムコウダ・クニコ)
                1929年~1981年


『冬の運動会』から
   朗読 吉原美智子 星置在住

    墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。
 

   『冬の運動会』は、1977年1月27日から1977年3月31日までTBSの「木下恵介・人間の歌シリーズ」で放送された
  テレビドラマ。現在は新潮文庫で刊行されている。
  1970年代には倉本聰・山田太一と並んでシナリオライター御三家と呼ばれた。
  猫を愛し、料理が上手、着こなしがよい、生涯独身。
  「しんぶん・赤旗」の愛読者であった。
  『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』などの脚本を執筆。
  著書に『父の詫び状』『男どき女どき』あり。 

        直木賞受賞。

 
    NO  4

        「原水爆禁止国民平和大行進」

           2018・5・19・土曜日
     手稲コース(6回目)に約100人が参加しました。

          

   10時45分に下手稲公園に着いた。ここが集合場所だった。
  雨が降っていたけど多くの人が集まっていた。金山の人、稲穂の人、新発寒の人、鉄北の人、我が町星置からは山本夫妻、
  吉原さん、五十嵐さん、曽川さん、それに私の6人が参加した。
   五十嵐さんがデザインした「星置9条の会」の幟が出来たので、その持ち役を引き受けた。つまり、今日は星置9条の会の
  呼びかけ人として参加するということだ。全国7500の一つとして声を上げるということだ。
   今回の行進には手稲区外から二人の人が加わった。
  山口逸郎さん、この人は映産労・被爆者の声をうけつぐ映画祭実行委員会推薦、もう一人の小川基弘さんは年金者組合札
  幌西支部の人だ。
   山口さんは86歳だというが、とてもパワフルな人だ。御本人は「精神年齢は68歳だ」と言って集会の場を盛り上げた。実際、
  68歳の行動力であった。68歳と言えば今の私の年齢だが、知力も体力も気力も、とても山口さんには勝てないね。そう感じ
  ると、少し恥ずかしかった。
   参加者が全員揃ったところで主宰の「新婦人手稲支部」の女性たちのリードによる合唱が始まった。
  歌は3曲。「青い空は」小森香子・作詞、大西 進作曲、「折り鶴」梅原司平・作詞作曲、「タンポポ」狩俣繁久・作詞、小森香子
  編詞、大西進・作曲。
  「タンポポ」は以前「星置9条の会」の集まりで何回か歌ったことがある。私は並みはずれての音痴ではあるが、歌うことは好き
  だ。特に好きなのは「河内音頭」と「ドックオブベイ」、どちらも少年の頃に覚えた歌だ。でも今は、やっぱり「タンポポ」の方がい
  いね。この歌を教えてくれたのは塩谷昭子先生だ。
  
     「タンポポ」

   1 金網のむこうに小さな春を        2 デモ隊の足もとにひかりの花を
     つくっているタンポポ              さかそうとタンポポ
     金網のそとにも小さな春を          米兵にふまれてもそれでも花を
     つくっているタンポポ              さかそうとタンポポ
     ひかりいろのタンポポは            強く生きぬくタンポポを
     金網があっても金網がなくても        金網のない平和な緑の沖縄に
     沖縄じゅに春を                 みんなのねがいをこめて
     ふりまいたでしょう                さかせてやりたい
                           
    11時20分に行進を開始した。先頭は共産党の佐々木明美さんと青年リレーのタスキをかけた少年の岸林大響君をはさ
   んで右に山口さん左に小川さんの4人組だ。2列目の「平和の旗」は五十嵐さん、その隣の「星置9条の会」の幟を持ってい
   るのは私だ。
    パワフルといえば佐々木明美さんだ。この人は、いつ何処にいようと「雨にも負けず、安倍にも負けず」の戦闘的民主主義
   者である。この人にも勝てないね。
   佐々木さんは言う。「広島を忘れるな、長崎を忘れるな、福島を忘れるな」と、「核兵器をなくせ、原発はいらない」と。
   佐々木さんは、今、「市民と野党の共闘」の最前線に立っている。
   その佐々木さんが手稲区民報の5月27日号に寄せたコラムから少し書き写す。


   平和行進の始まりは、60年前に西本敦さん(日蓮宗のお坊さん)が、広島の原爆記念碑の前から被爆者や、広島市長に
  見送られて初めの一歩を一人で歩み出したことが始りです。西本さんは、「日常生活の中で一時も平和運動を進める事を忘
  れてはいけない。それは、高度のものではない。どこでも、いつでも一歩一歩地道に運動を起こすことだ」と語っていたそうです。
  雨の日も、風の日も半世紀以上続けてきた運動が、昨年のニューヨーク国連での核兵器禁止条約に繋がりました。
  市民の手で平和の運動を育てましょう。

                                 党手稲区生活相談室長  佐々木明美
 


   行進をしている間、私は韓国の詩人文炳蘭(ムンビョンラン)さんのことを思い浮かべていた。
  
  「また五月です。君よ。わたしに五月を歌えといいますか/動かぬ唇で五月をたたえよといいますか。まぶしい、美しい燦々たる
  五月を/どう歌えというのですか。」

  「ああ、わが君よ、冷たくなった灰色のこころの中に来て/燦々と燃え上がるつややかな五月の花になれ/闘う人の掌に来い、
  わが君よ/永遠に消えぬ自由の炎になれ/輝く正義の松明になれ」

  「五月よ、また復活せよ」か、なんと美しい言葉であることか。
    
                                  「ハックフィン協奏曲」から   中本 雪人

 
       セツコ・サーロー

   1932年、広島県広島市南区で中村節子として生まれる。
  カナダのトロント市在住の被爆者。

    「沈黙の閃光」 セツコ・サーローさん(抜粋)

   いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広島女学院に通う13歳の生徒
  でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大
  半を、あのとき目の当たりにした恐怖と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私た
  ちは、いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。
  警告なのです。

   爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえました。しかし
  私たちは、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったの
  です。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物とともに、
  私の身体は落ちていったのです。
  一番不思議だったのは、あのときの静けさです。それは、私が感じたもっとも忘れることのできない記憶のひとつです。
  みなさんは、人々がパニックに襲われ、走り、叫びまわると思うかもしれません。ですが広島では、そうではなかったので
  す。無声映画の絵姿のようにゆっくりと動き、埃と煙の中を足を引き摺りながら歩いていたのです。何千人もの人が、「水、
  水をください」といってあえいでいました。多くの人がそうして崩れ落ち、死んでいったのです。

   広島の平和公園には慰霊碑があり、そこには「安らかに眠ってください、過ちは繰返しませんから」と書かれています。
  これが被爆者の誓いになりました。そうしてこそ愛する人たちの正視に堪えない死も無駄死でなかったことになるのです。
  そうあってこそはじめて、私たちが生き残ってきたことも意義を持つのです。

 


    NO 5 
          
              「3000万署名」
      

          
                  2018・5・23

      アベは辞めろ !
      今すぐ辞めろ !  さっさと辞めろ !
      それが世の為、人の為、世界のためだ !

         

                 星置9条の会呼びかけ人
                            手稲駅北口前広場
     後列左から
           五十嵐さん、吉原さん、垂石さん、中本さん、福盛田さん。

     前列左から
           塩谷さん、山本(恵)さん、作田さん。
                             撮影者 山本(正)さん。

    「星置9条の会」の幟ができたことは2・3日前の日記に書いた。
   旗色鮮明という言葉は広辞苑によれば、「はたじるしがあざやかではっきりしていること。転じて、態度・主義・
   主張などがはっきりしていること」とあるが、文字通り一本の幟が路上にはためくことによって私たちの非戦の
   思想が道行く人々に目に見える形をもって呼びかけたのではないか、その幟の下に集まった9人は悪政を撃
   つ響きと怒りであり、それは流れるままの、あるがままの現在を現実として容認するのではなく、本来あるべき
   はずのものを取り戻そうとする運動であり、不条理を告発する回状であり、自発的隷従の鎖を断ち切る宣言で
   あり、初夏の朝の光の中に立ち現れた一個の確かな現実である、と私は思う。
    現実とは、そこにあることを認めることではない、自らの手で実現する時空間のことである。
   私は立ち上がる、私は声を上げる、私はペンをとる。これらの行為によって私の目の前に現れた世界、それが
   どれほど不完全なものであろうとも、それ以外に私の現実というものはない。このように書くと余りに主観的に過
   ぎるという反論もあるかもしれないけれども、誤解のないように断っておくが、私はいかなる意味でも主観主義者
   でなない、さりとて客観主義というのも私の理解するところではない。
   私は、ただ精神の自立性について小声でつぶやいているに過ぎない。
   モンテーニュが言っているではないか、「私は私の意見を述べる。それがよい意見だからではなく、私自身の意見
   だからだ」と。
    午前10時30分、手稲駅北口前広場、星置9条の会のメンバーが3000万署名をと手稲区民の人々に呼びか
   けている。
   これが2018年、北の海辺の町の5月の現実である。
    20日の「しんぶん・赤旗」に東京都内で開かれた全国革新懇の総会で共産党の志位和夫委員長が特別発言を
   行い、市民と野党の共闘の到達点と展望について語っている。
    志位さんは言う。

    この通常国会は歴史上かつてない異常国会になっています。改ざん、隠ぺい、ねつ造、セクハラ――ど
   れも日本の政治史上かつてない出来事であり、民主主義が土台から壊される異常事態であります。そして、
   そのどれもが安倍首相の責任を鋭く問う問題となっています。

    安倍首相は、疑惑と不祥事にまみれ、内政・外交ともにボロボロですが、9条改憲だけはあきらめようとし
   ない。なぜかと言いますと、この旗を捨てたとたんに内閣は求心力を失い、終わりになってしまう。だから何
   がなんでも、ボロボロになりながらも、この旗にしがみついている。自分の野望のために、もっといえば延命
   のために、憲法をもてあそんでいるのが、安倍政権の姿にほかなりません。

    3000万署名は1350万まで広がっていると聞いております。安倍9条改憲の正体が、無制限の海外での
   武力行使に道を開くことにあることを広く伝えきり、3000万署名を文字通り集め切り、改憲策動の根をたつ
   ところまで攻めて、攻めて、攻めぬこうではありませんか。


    今日は42人の人が署名をしてくれた。お年寄りも若い人も、みんな安倍政治に怒っている。保守も革新も、みんな
   怒っている。共産党の志位さんも元総理の小泉純一郎さんも、怒っている。
   何故だ?それは安倍晋三という男が嘘つきだからだ。
    嘘つきのことを明治のころは三百代言屋と言った。今は千三屋(せんみつや)と言う。意味は、その男が話すことに
   は千に三つしか真実がないということだ。虚言症は病気ではない、甘やかされて育った男の単なる精神の歪みである。
   簡単に言えば、ポチの特性ということだ、それ以上でもそれ以下でもない。
    ポチというのは、ペッツトショップが取り扱っている長州産の愛玩犬である。
   愛玩犬と言っても特に可愛いというわけでもなく、これといった芸があるわけでもないが、ただアメリカの犬種協会には
   日本産の愛玩犬と登録されているだけのことである。まあ、アメリカ人から見れば愛玩犬の一種なのだろうが、それは
   アジアでもヨーロッパでも認められていることであるから、とりあえずは世界の常識といったところか。
    百科事典でポチの項目を開くと、国内では人気はなく、お主にアメリカの富裕層に輸出される。血統書には、初代・岸
   信介号、二代・佐藤栄作号、現在の在庫は三代・安倍晋三号と書いてある。
   特性は傲慢にして虚言癖、特技はへつらいと書いてある。また、当人は軍用犬だと信じているが、その体力と知力は番
   犬としても牧羊犬としてもとても務まらないので購入の際にはご注意と断り書きが付いている。まあ、駄犬ということだ。
   小さな駄犬がいくら背伸びしたところでシェパードに成るわけがない。だから世界の人に笑われる。
   かつて芥川龍之介はこう言ったよ。

     阿呆はいつも彼以外のものを
    阿呆であると信じている。

            「ハックフィン協奏曲」から  中本 雪人


     「この人を、見よ !」

         2018・5・30  水曜日

   「安倍9条改憲NO! 3000万人署名」を727人分集めた人のことが新聞に載っていた。奈良県生駒市在住の
  谷山清さん(92歳)という人だ。この人は奈良市などで小学校の教員を38年間務め、職後は、憲法9条の会・生駒
  や生駒南第2小学校区9条の会結成の呼びかけ人の1人として活動してきたということだ。
   谷山さんは9条について、「子どもや孫の世代に日本が再び過ちを繰り返させないための大事な宝だ」と言う。立
  派な人がいるものだね。
  集めた727筆というのは教え子や知り合いということだが、92歳にしてのこの交友関係の幅の広さと深さは驚嘆の
  一語に尽きる。
   私事だが、このあいだ住所録を整理したのだが、作業後分かったのは現在の私には手紙を出せる知友は60人し
  かいないという寂しい現実だ。68年も生きて来てたったの60人か、何とも情けない人生だね。その他の人々はいっ
  たい何処へ消えてしまったのか。斜里の友だち、大阪の友だち、東京の友だち、釧路の友だち、十勝の友だち、札幌
  の友だち、もっともっといたはずなのに、住所録に書き込むことの出来たのはわずかに60人だとは、この人生は余り
  にも貧しすぎる。
   その原因はどこにあるのか、多分、私が人と人との結びつきというものを大事にすることが出来ない人間だというこ
  となのだろう、もしも私に寛容というものがあったならばこういう結果にはならなかったのではないか、いや、そうに違い
  ない。私が92歳に成った時(そこまで生きれるかどうかは分からないが)、谷山さんのように727人の人から署名を預
  かることが出来るだろうか、それだけの人から信頼を得られる人間になっているだろうか、大いに疑問ではあるが、人
  間として恥じることのない、また悔やむことのない生き方とはここにしかないだろう、と思う。
   谷山さんは、「年のため、署名行動には参加できないので、せめて手紙を出すという自分なりのやり方で、これからも
  3000万署名を集めていきたい」とほほ笑んだそうだ。微笑みの翁か。
  「枯れ木に花を咲かせましょう」・・そうなりたいものだね。

 

 
      NO 6

          幣原元首相

      憲法9条、意義強調…原稿が宮城で見つかる
     毎日新聞2018年5月3日 22時25分(最終更新 5月3日 23時00分)
     


    幣原喜重郎
  「厳粛なる憲法の明文を以て」(5行目)などと平和憲法の意義を記した「年頭雑感」の原稿の一部=元宮城県知事の
  本間俊太郎氏提供。
   第二次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)と折衝を重ねて現行憲法の制定を進めた幣原喜重郎(しではら・き
  じゅうろう)元首相(1872~1951年)が書いたと伝わる原稿が、宮城県加美町で見つかった。「新日本は厳粛なる憲
  法の明文を以(もっ)て、戦争を放棄し、軍備を全廃した」などと記されており、幣原の平和憲法への思いを伝える貴重
  な史料となっている。
   所蔵していた本間俊太郎・元同県知事(78)によると、衆院議員だった父俊一さん(故人)が幣原の遺族から譲り受け
  たもの。自宅で俊一さんの遺品を整理していて見つけたといい、近く国会図書館憲政資料室に寄贈する。「年頭雑感」と
  題してあり、ラジオ放送用の原稿だったとみられる。
   原稿はA5判9ページ。署名はなく、作成時期も記されていないが、文中に「講和会議を目前に控え」とあり、サンフラン
  シスコ講和会議(51年9月)があった51年のものとみられる。当時、幣原は衆院議長だった。
  文中には、「国民生活の水準はこれに依(よ)って向上せられ、人類一般の幸福をもこれに依って貢献し得られる」とあり、
  更に、外国からの攻撃への対処が「国民の一大関心事」とした上で、「我国を他国の侵略より救う最(も)効果的なる城壁
  は、何としても正義の力である」と訴えている。
   立教大の粟屋憲太郎名誉教授(現代史)は「幣原が9条への思いを伝えようとしたものとみていいだろう」と指摘する。
   【山田研】

 
    NO 7

    幻に終わった“共和国” 伊豆大島がつくろうとした憲法とは?

    
       
    [写真]郷土資料館に展示された解説文と大島憲章のコピー文

    日本国憲法は1947(昭和22)年5月3日に施行されました。それを記念して、5月3日は祝日に制定されています。
   いま憲法改正が話題になる機会は増えました。今夏の参議院選では憲法改正も争点の一つといわれています。
    日本の戦後史を紐解くと、実は東京都の一部である伊豆諸島の大島で日本国憲法とは別の憲法を制定する動
   きがありました。
    GHQが大島の日本からの分離を指示
   東京湾の玄関口である竹芝客船ターミナル(港区)からジェット船で約2時間。伊豆諸島最大の大島は、120キロ
   メートルほど離れています。人口は約8300人。そんな小さな島が独自の憲法を制定しようとしたのは、1946(昭和
   21)年のことでした。
    敗戦直後、実質的に日本を統治していたGHQは、大島を日本から分離することを指示します。その理由は判然
   としていませんが、前触れもなく大島は日本から切り離されることになったのです。
   降って沸いた話に、大島は混乱します。現在、大島は一島一町で構成されていますが、当時の島には6つの村が
   ありました。6つの村の有力者たちが集まり、大島の今後について話し合われたのです。
    その話し合いで、最初に出てきたのは憲法を制定することでした。国として大島が独立するのですから、当然と
   言えば当然の流れですが、敗戦直後の大変な時期です。そんな大変な時期に日本からの独立を促されただけで
   も頭が真っ白になって何も考えられないはずですが、大島の有力者たちは「独立するのだから、まず憲法を制定し
   なければ」とすぐに決断を下しました。
    独立が浮上しすぐに「憲法策定」に動く
   なぜ、すぐに憲法をつくろうと考えることができたのでしょうか? 大島町教育委員会で文化財保護審議会委員を
   務める岩崎薫さんは、こう推測します。
   「戦争に負けた直後ですから、島民は明日の生活で精一杯。とても独立を話し合うような状況ではなかったと思い
   ます。それでもGHQから指示されて、強制的に独立しなければならない。そうした事態に直面し、すぐに憲法制定
   に動いたのは柳瀬善之助の影響が大きかったと思います。柳瀬は戦前期に島で新聞を発行し、政治や社会に対
   する意識はかなり高かく、柳瀬は大島で一番人口の多かった元村の村長を務めていました。独立話が出てきたと
   きに、すぐ憲法を制定しなければならないと考えたのは、常日頃から柳瀬がそうしたことを意識していたからでしょう」
    柳瀬村長を中心に憲法づくりは急ピッチで進められました。わずかな作業日数で、前文である“大島大誓言”が起
   草され、島民主権や平和主義を盛り込んだ3章21条からなる“大島共和国”の憲法にあたる“大島憲章”がつくられ
   ていったのです。

    歴史の闇に埋もれた“大島共和国”
   伊豆諸島には大島のほかにも、いくつかの有人島があります。また、GHQは小笠原諸島の行政権を停止させ、サ
   ンフランシスコ講和条約の締結後もアメリカの占領下においていました。大島が独立するときに、伊豆諸島や小笠
   原諸島など、ほかの島と一緒に独立しようという話はなかったのでしょうか?
   「柳瀬は全島組織である島民会をつくるなど、大島独立に向けて、奔走しています。しかし、伊豆諸島のほかの島や
   小笠原諸島までといった話はなく、ほかの島に声をかけたといった記録もありません。戦後の混乱期ですから、まず
   大島の6か村をまとめようと考えたのでしょう。また、地理的には伊豆諸島としてくくられる八丈島や三宅島などは、今
   でこそ簡単に船で行き来できますが、当時は島それぞれが独自に生活をしていました。島ごとに独自の文化や風習
   があり、だから一緒に独立という話にはならなかったのではないでしょうか」(岩崎さん)
    着々と憲法の制定作業が進められ、島民による新しい国づくりを目指しました。有力者たちの間でも独立の機運も
   日に日には高まっていきましたが、そこで事態は急展開します。大島の独立を強制的に指示したGHQが、それらをす
   べて撤回したのです。
    GHQが翻意した理由は定かではありません。政府や東京都の関係者たちによる「大島を日本から切り離さないよう
   に働きかけた」といった証言は歴史書にも残されていますが、実際にGHQが政府や東京都のアドバイスをどこまで聞
   き入れたのかは謎のままです。
    とにかく、GHQが大島の独立を白紙に戻しました。大島の独立のために憲法制定に動いていた有力者たちも、心の
   どこかで「できるなら、日本のままでいたい」と思っていました。だから、大島独立の話が幻に終わると、大島の関係者
   たちも胸をなでおろしたのです。こうして“大島共和国”は、わずか53日間で終わりを見たのです。
   その後、大島の独立話は蓋をされて、歴史の闇に葬られます。島民の記憶からも、大島憲章や大島共和国は忘れら
   れた存在になりました。

    歴史的な発見になるはずだったが……

    [写真][写真]現在の大島町役場。1955(昭和30)年の合併で島内6つの村が大島町にまとまる。以降、町役場は街
   の拠点として機能している
   大島憲章が再び脚光を浴びたのは、20年前に遡ります。行政文書を保管していた倉庫から、大島憲章の原文が偶然
   発見されたのです。発見した職員も、「独立話があって、憲法を制定したようだ」と伝聞でしか聞いたことがなく、大島憲
   章の原文が見つかったことは歴史的な大発見になるはずでした。
    しかし、発見当時は独立のドタバタから50年が経過していました。すでに大島憲章の制定過程を詳しく知る人は少な
   く、岩崎さんも「年配者から『大島はアメリカになるはずだった』といった話を聞くことがありました。大島憲章の原文が
   発見された時、あの話はこのことだったのだなぁという感慨を抱きましたが、大発見というような興奮はなかったです」と
   当時を振り返ります。
    大島憲章が発見された1997(平成9)年には、大島町の郷土資料館で企画展が開催されました。大島の貴重な歴史を
   物語る史料ですが、島民からそれほど高い関心は寄せられなかったようです。
   さらに20年の歳月が流れた現在、大島憲章の原文は所在不明になっています。また、大島の小中学校の授業でも大島
   憲章を教えることはほとんどないそうです。そのため、島民の記憶からも、大島憲章は風化しつつあります。
    大島憲章を今に伝えるモノは、町役場が保管している大島憲章のコピーぐらいしか残っていません。
   先人たちがつくった日本国憲法、そして大島島民がつくろうとしたろうとした憲法。私たちは普段の生活で憲法を意識す
   ることはまずありません。しかし、憲法は国の根幹をなすものですから、憲法記念日を機に一年に一度ぐらいは考えてみ
   てもいいのではないでしょうか?
       (小川裕夫=フリーランスライター)




        NO 8


      「日本の近・現代」

  黒船来航  1853年(嘉永年) マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊来航。
          幕末の始まり。ペリーの言葉、「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点が
          あるだろう」。

  戊辰戦争  1868年(慶応4年)から1869年(明治元年)、薩長土らの新政府軍と旧幕府勢力
          との内戦。

  台湾出兵  1874年(明治7年)、台湾に漂着した琉球漁民の殺害を理由に西郷従道の率いる
          征討軍を派遣、開国後最初の海外派兵。

  西南戦争  1877年(明治10年)西郷隆盛を盟主にして起こった士族による反乱。明治政府内
          の権力闘争。

  琉球処分  1879年(明治12年)、明治政府が琉球に対して、清への冊封関係の廃止を求め、
          武力を背景に強制的に日本へ統合した。

 大日本帝国憲法  1889年公布。第1章第1条「大日本帝国は、永遠に一つの系統を継承してい
            く万世一系の天皇が統治する」(現代語版)。

 日清戦争   1894年(明治27年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに朝鮮に出兵した日清
          両国が8月1日宣戦布告に至った。

 乙未事変   1895年10月8日、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃は日本公使
          三浦梧朗の計画に基づいて王宮に乱入した軍事顧問岡本柳之助らによって暗殺さ
          れた。

  日英同盟  1902年1月30日、ロシア帝国の極東進出政策に対抗する目的として英国外務省に
          おいて日英軍事同盟が結ばれた。これは英国のアジアでの権益を守る為の番犬とし
          て日本が列強の仲間入りを認められたということである。

  日露戦争  1904年(明治37年)、大日本帝国とロシア帝国の朝鮮半島の支配をめぐっての戦争
          である。帝国主義戦争である。

  韓国併合  1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大
          韓帝国を併合した。この後日本による統治は1945年の日本の敗戦まで35年間続い
          た。 

 第一次世界大戦  1914年(大正3年)から1918年(大正7年)。
           日本は連合国側で参戦。ドイツが権益を持っていた青島や南洋諸島を攻略。

 ロシア革命  1917年11月、レーニンの指導による世界最初の社会主義革命が起こる。
          ロシア帝国崩壊。

 シベリア出兵  1918年から1922年までの間、連合国(日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア
          など)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに
          出兵した。革命に対する干渉戦争。

 満州事変    1931年(昭和6年)中華民国奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を
          爆破した事件に端を発し戦争となり、関東軍が満州全土を占領した。

  日中戦争  1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第
         29軍との武力衝突。ここから日中戦争が始る。この戦争は先の満州事変から数えると15
         年の長きに渡って続く。

 第二次世界大戦  1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻。
             ここに第二次世界大戦が始る。

 日独伊三国同盟  1940年(昭和15年)9月27日、日本、ドイツ、イタリアの間で締結された三国間条
             約。反共同盟とも反米同盟ともとれる曖昧なものであるが、結局はソビエトもアメリカ
             も敵に回してしまった。要するに、イギリスのアジアにおける番犬からヒトラーの世界
             戦略上での極東の軍用犬に変わったということである。

  太平洋戦争   1941年(昭和16年)12月8日、日本は英米に宣戦布告。大東亜戦争ともいう。

   原子爆弾投下  1945年8月、6日広島、9日長崎へ米国が原爆投下。

   敗戦      1945年8月10日、日本、連合国にポツダム宣言受諾を打電により通告。
            降伏文書調印  同年9月2日、米国戦艦ミズーリの甲板上で調印。 太平洋争終結。

  日本国憲法   1947年(昭和22年)施行。第1章第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合
           の象徴であって、この地位は、日本国民の総意に基づく」。

   1868年の戊辰戦争から1945年の敗戦までの間は77年である。その敗戦から2017年の今日まで
  は72年である。この72年の間、戦争は一度もなかった。
 



      NO  9
 
     「醜悪の系譜」



     安倍昭恵
 1962年生まれ(55歳)
※ 関連検索用語
  アッキーレス腱
  アッキード事件
  アッキーゲート
  アベノリスク
通称 アッキーまたはヒッキー
   またはワーストレディ
職業 居酒屋経営・不動産鑑定士

無尾目ヒキガエル科の両生類 

   「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機
  が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資
  金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」と言ってのけたのは満州帰りの岸信介である。「政治は力
  であり、金だ」、これも岸信介の言葉である。
  その岸をさして鳩山一郎は、「あんなに金に汚くてはいけない」といった。岸は、そういう政治家だった。
  満州では総務庁次長として統制経済を取り入れた「産業開発5ヵ年計画を実施し、開戦時には東条内閣の商工
  大臣として「米国及英国ニ對スル宣戦ノ詔書」に署名し、敗戦後は「A級戦犯」として巣鴨拘置所に入れられた。
   その後は正力松太郎などとともに米国中央情報局(CIA)から資金提供を受け妖怪として復活した。
  戦後の岸を支えたのは椎名悦三郎、瀬島龍三、笹川良一、児玉誉士夫らの満州人脈であり、統一協会教祖の
  文鮮明や創価学会第2代会長の戸田城聖といったカルトの指導者である。台湾総統の蒋介石とは「勝共連合」
  を設立した。
  理念もなく節義もなく、金に汚く、機を見るに敏、ただそれだけの男である。
   もう一枚の写真は、昭和時代のある田舎の田んぼで写されたと思われる蟇蛙(ひきがえる)のヒッキーちゃんの
  記念写真である。何の記念だか分からないが、あまり美しいものではない。
  口癖は、「私の力を世の中のために役立てたい」と「神様の導き」である。
  公人以上の力をもつ特別私人の傲慢と無知、それ以上でもそれ以下でもない。
   上の右側の写真は妖怪・岸信介のお孫さんにしてヒッキーちゃんのご亭主である靖国小僧の嘘つきシンチャン
  である。
  この男を支えているのは元・生長の家の椛島有三が率いる日本会議の狂信の徒や歴史修正主義者の桜井よしこ
  やその他の有象無象の差別主義者たちである。
  既に「保守」ではない。正真正銘のファシストである。

            能力なくして地位にしがみつく者、これを俗物と言う。
                                 ウイリアム・シエイクスピア

  
  



       安倍内閣の退陣求める声明 

           高村薫さんら「七人委員会」
                  6/7(木) 16:14配信     朝日デジタル

 
   作家の高村薫さんや写真家の大石芳野さんら文化人や科学者ら7人でつくる「世界平和アピール七人
  委員会」は6日、「安倍内閣の退陣を求める」と題する声明を発表した。「国民・国会をあざむいて国政を
  私物化し、外交においては世界とアジアの緊張緩和に背を向ける安倍政権を許容できない」として、安倍
  内閣の即時退陣を求めている。

   委員会は1955年、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士らが結成。現在は国際政治学者の武者小路公
  秀さんや宇宙物理学者の池内了さんらが委員を務める。内閣の即時退陣を求める声明は発足以来初め
  てという。

   世界平和アピール七人委員会が6日に「安倍内閣の退陣を求める」の題で発表した声明全文は以下の
  とおり。委員は武者小路公秀、大石芳野、小沼通二、池内了、池辺晋一郎、高村薫、島薗進の各氏。

   5年半にわたる安倍政権下で、日本人の道義は地に堕(お)ちた。
  私たちは、国内においては国民・国会をあざむいて国政を私物化し、外交においては世界とアジアの緊張
  緩和になおも背を向けている安倍政権を、これ以上許容できない。
  私たちは、この危機的な政治・社会状況を許してきたことへの反省を込めて、安倍内閣の即時退陣を求め
  る。

 
     NO 10

           「状況(シチユアシオン)」2018年・夏
                   この国の今と此処

    
   「人間は、自らの行動の中で、自らを定義する。」 

   J・P・サルトル

1950年生~1980年没
フランスの哲学者、小説家、劇作家



    こんにちは。
   今日、この場に参加された皆さんは、世代も経歴も思想・信条も異なる人たちですが、今を生きる日本の一市民の一人として、
   今何をしなければならないのかという一点において志を同じくする人たちです。それは先の大戦の反省と教訓から学びとった、
   普遍の原理としての反戦・平和を高らかに歌い上げる憲法九条を守ろうという立場においての連帯です。
    九条の会は、皆さんご承知の通り2004年(平成16年)に文学者の加藤周一さんら9人が最初の呼びかけ人となって立ち上
   げられた護憲の市民運動です。
   護憲と言うと、何か国内の政治問題のようにも聞こえますが、九条が単に日本国内の安全を保障することを目的としたものであ
   れば、加藤さんたちはこの運動を立ち上げることはなかったでしょうし、また世界の各地・各分野からこれほどの称賛と連帯を表
   明されることもなかったでしょう。
    実は、九条は単なる国内法ではなく、歴史・民族・体制の違いを超えてあらゆる価値に優越する普遍の平和憲章なのです。
   この思想は、古くは人道主義(ヒューマニズム)と呼ばれたものです。それは国境や政治的立場を越えて人間の倫理とは何かと、
   問うた運動です。
   最初の呼びかけ人の9人の中には政党人・宗教者の名前は見えません。
   このことは偶然ではないと思います。おそらく、加藤さんらが描いた構想には、この運動を党派的なものや宗派的なものを超えた
   ところに展開し、そして発展させたいという思いがあったのでしょう。では、そこでもっとも重要だとされたテーマとは何かということ
   ですが、おそらくは人権(生存権)と立憲主義ということではないでしょうか。フランス人ならば、自由・平等・友愛というかもしれませ
   ん。
    2011年の時点では、全国で7500の「九条の会」の活動が確認されています。その中には念仏者やキリスト者や映画人や引き
   こもりの人たちやシングルマザーの繋がりや保守系の人たちのものもあり、もちろん地域や職域のものもあり、その他様々な九条
   の会があります。それこそ思想・信条の違いを超えてです。
    2004年の6月10日に発表された「九条の会」アピールでは次のようなことを訴えています。

    私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。
  そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして、選び直し、日々行
  使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。
   日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひと
  りができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。


    ところで、「九条の会」が誕生した2004年というのはどういう年だったでしょうか。この年の1月19日、自衛隊がイラクに派遣され
   ました。時の総理大臣は格差拡大肯定の「新自由主義」の信奉者であり、靖国神社参拝を積極的に行う復古主義者の小泉純一郎
   でした。アジア蔑視と対米従属の軍拡路線の始まりです。この時から国際平和への貢献というものに軍事的な意味合いが込められ
   るようになりました。これが国策的には二度目の脱亜入欧であり、富国強兵です。
   その目標とするところは天皇を元首とする大日本帝国の復活です。このことは平成24年に発表された自民党の「日本国憲法改正草
   案」の中にはっきりと書かれてあります。これはA級戦犯であった岸信介の唱えた「中型帝国主義」の明文化です。具体的に言えば、
   それはアメリカの了解のもとにアジアでの覇権を握るということです。この構想には財界の支持もありました。経済進出ということです。
   そのころから企業の動態を表す経済用語に「国益」という言葉が頻繁に出てくるようになりました。つまりこの国の支配層が「産軍共同
   体」という形を取り始めたということです。そして、国内のメディアは正確な報道をしませんが、この頃から海外のメディアは日本の右傾
   化について懸念と警告を示すようになりました。
    「九条の会」の最初の呼びかけ人9名の生年月日は以下の通りです。

      1 三木睦子  1917年生~2012年没
      2 加藤周一  1919年生~2008年没
      3 鶴見俊輔  1922年生~2015年没
      4 梅原 猛  1925年生
      5 奥平康弘  1929年生~2015年没
      6 澤地久枝  1930年生
      7 小田 実  1932年生~2007年没
      8 井上ひさし 1934年生~2010年没
      9 大江健三郎 1935年生

   最高齢の三木さんと最若年の大江さんの年齢差は18歳です。この9人が敗戦の朝、何処で何をしていたのかは詳しくは知りませんけ
  れども、共通しているのは皆さん戦前の生まれだということです。つまり、戦争を知っている世代の人だということです。
  そういう人たちが、思想・信条の違いを超えてこれだけは守らなければならないと思ったものが「憲法九条」であり、これだけは伝えなけれ
  ばならないと思ったものが市民運動としての九条の精神でしょう。
  2007年11月24日の「九条の会全国交流会」の場で加藤さんは「『守る』ことと『生かす』こと」と題して次のようなことを語りました。

   憲法を改正するのは戦争のためで、いきなり戦争できるようにこの国をするためです。しかもそれはこれから先、何年間にわた
  ってです。改憲がゆっくりくるようになると長丁場にならざるを得ないわけで、これからは問題が複雑になると同時にゆっくり進む
  ようになるでしょう。
   劇的な花火を打ち上げるという形ではなくて、日常的に地道に抵抗を続けていくよりしょうがないと思います。少なくとも、その面
  を含まなければならないと思う。だから二つあると思います。
   第一は、おそらく長丁場であるということを意識して運動をやるということ。今年だけ運動が活発なのでは駄目で、長く活発にや
  る。拡大した組織は、ゆっくり大きくなる。劇的に大きくならないけれど、ゆっくり確実に大きくなるのだということをはっきり意識し
  なくてはならない。これは大きな仕事だと思います。
  しかし、意識的にそういう方向に動くべきではないかと、私は思います。
   それから第二は、あまり抽象的なことばかりでなく、すべての問題を日常性に結びつけなければいけないということです。憲法を
  改正しよう、改憲をしようという勢力の政治的方角は、福祉の縮小であり、対外的な戦争の容認です。彼らはそういう方角に目標
  を切り替えようとしていると思います。
   我々は日常生活であらゆる手段をとって、それに対して反対する。教育について、年金について、何についても反対すべき政策
  が非常に多いけれども、それらは相互に関連しています。その相互に関連したもの全体に反対することがたいせつで、つまるとこ
  ろそれこそが憲法を守るだけでなく積極的に生かしてゆくことではないでしょうか。
   これから先、大変だと思います。でもどうか皆さん、一緒にできるだけのことをしましょう。一緒にできることは沢山-限りなく沢山
  あるのです。


    加藤さんは、民主主義の立場から見て「憲法九条」が長い日本の歴史の中で一つの到達点であり、また後に続く世代が創るであろう未
  来に向けての出発点であると考えていたのではないでしょうか。おそらくは、和漢洋の三界を自由往来の大知識人であった加藤さんはこの
  運動を市民が主体となった「文化革命」と捉えていたのでは、それを提唱し、そこに自ら積極的に参加することは戦前を知る加藤さんにとっ
  ては「知識人の責任」を果たすことだったのではないでしょうか。
   実存主義者のジャン・ポール・サルトルは、政治的な「参加」を「アンガージュ」といいました。これは市民の権利としての「行動」のことです。
  「行動」を伴わない「知識」は、ほんとうの「知識」とは言えないという考え方です。中国の人ならば「知行合一」というのでしょうか。
  加藤さんは、こう言っていました。

  「先の見通しを持つということは、すでにあった事実の中から、ある一つの方向をもった流れを見つけ出すということである。」

   そして、2018年の「今と此処」です。「状況」はどうでしょうか。
  小泉純一郎の時代は終わって跡を継いだのは弟子の安倍晋三です。この人は暖かい部屋の中で外祖父であった岸信介の膝の上で外から
  聞こえる安保反対の悲痛な叫び声を子守歌にして育った男です。理念も政策もすべて外祖父から受け継いだまるでコピーのような二流の男
  ですが、その人物が今の総理大臣であることは現実なのです。
   民意無視の強権むき出しの反知性主義、状況は1960年と同じです。また2004年とも。まさにファシズム前夜です。
  加藤さんには、いつかこの日が来るという予感があったのでしょう。
  その根拠は、この国が戦後、先の戦争についての総括を出来なかったということ、もう一つはこの国の近・現代というものが常に権力の主導
  によってなされ、この間一度も市民革命というものを経験することがなかったということです。
   ここで問題となるのは、経済的発展とは別な次元での文化的後進性ということです。
  これらの状況を克服する方法として九条の会は設立されたのではないでしょうか。この運動を受け継ぎ、そしてより多くの人びとに伝え、連帯
  の輪をより大きくし、持続の志を不屈に守り抜くこと、それが反ファシズムの文化革命というものなのではないでしょうか。
  戦いはこれからです。戦後生まれの人たちが始める戦いはこれからです。
   しかし、戦後生まれと言っても、敗戦の年の1945年(昭和20年)に生まれた人は今では72歳です。決して若くはありません。そして1989
  年(平成元年)生まれの人は今年28歳となります。ここでも既に何かに憧れて夢を見る少年時代は終わっています。それ以降の人たちとなる
  と、つまり現在の少年・少女ということですが、この世代ではベトナム戦争の記憶もありません。
  同じ戦後生まれといっても、戦争を知らないという一点を除いては、昭和と平成(その前期と後期)ではその原風景には共通するものは全くな
  いでしょう。
   どの時代に生まれたとしても歳月が経てば人は高齢化します。これは自然現象ですから、このことを倫理的な次元で問題とすることは出来
  ません。しかし、それが記憶の風化を肯定し、歴史に背を向ける修正主義を跋扈させるとなれば、ことは単なる政治上の主義・主張の問題で
  はすまされないでしょう。
   簡単に言えば、「あったこと」を「なかったこと」にするというのは人間性に対する裏切りです。
  考えますに、加藤さんらが「九条の会」という器を作って実現しようとしたものは、もちろん第一には戦争は人類に対する犯罪であると告知する
  「憲法九条」を守るということですが、それは目的であって、方法ではありません。
   では方法とは何かということですが、第一は「伝えること」です。これは記憶の風化に対する抵抗ということです。第二は、「声を上げること」で
  す。これは主権者として悪政を倒すということです。第三は、「手をつなぐこと」です。すべての不条理に対して市民が連帯して立ち上がり「自発
  的隷従」を拒否すること、ここからしか民主主義は生まれません。
   情勢は激変しています。その原因は色々と考えられるでしょうが、ここまで追い込んだのは市民の怒りであり、それが「市民と野党の共闘」を
  呼び起こし、選挙のたびに少しずつ変化を目に見えるものとして作り上げてきたのです。この変化はまだ十分なものではありませんけれども、
  これが潮流として新たな状況を作り出しているということには確信がもてます。何故と言うに、現に今日ここに多くの人が集まっているからです。
  そして、こういう運動体が全国に7500もあるという事実です。
  この草の根の運動をマーク・トウエインは「戦闘的民主主義」と呼びました。
  皆さん、この状況の変化をもっと推し進めようではありませんか。 私たちの今日のために、後に続く世代の明日のために。
  「憲法九条」を持つに相応しい国を作るために、今から、此処から、私から、立ち上がろうではありませんか。

                                                             星置九条の会   中本 雪人

  ※  「シチユアシオン」はサルトルの評論集の題名です。
    本は1964年(昭和39)に人文書院から全38巻で刊行されたものです。その第九巻に収められている「文学とはなにか」は加藤周一さんの
    翻訳によるものです。中古本はアマゾン(ネット通販)で購入できます。
 


 
      NO 11
   
   私論「暗夜の一燈」

五十嵐公人さんについて想うこと
 

   先行者の足跡が大きければ大きいほど、その後を追いかける者は、たとえ行き先が分からなくとも、道に迷うことなく、
  またぬかるみに足を取られることなく、安心して旅を続けることができる。行き先が分からなくとも追跡するというのは、
  先行者と後行者との間に楽園(求める処)についての深い信頼関係があるということだ。
   こういう先行者に巡り逢うことが出来るということは、間違いなく愚者にとっては幸運というものである。何故なら、この
  出会いがなかったならば愚者は己の道を発見することは出来なかっただろうから、求道とは、謙虚に学びの姿勢をとる
  ことからしか始まらない。
  わたくしは、改めてこの出会いに感謝するものである。
   この数年、わたくしは雨の日も雪の日も歩いた。歩いてみればわたくしの住む星置は思っていたほどそれほど大きな町
  ではなかった。そして、不思議なことに歩く回数が増えるに連れて町はどんどん小さくなってきた。これは歩行の能力が進
  化したということではない、そうではなくて、精神の運動量が現実を乗り越えたということだ。
   もちろん、未だ不完全ではあるけれども、運動の方法は会得した。草の根の戦闘的民主主義というものである。つまり
  人生と歴史に向かい合う態度と立場が確定されたということだ。この意味は、わたくしがこの先実現しなければならないも
  のが何であるかを発見したということだ。
  五十嵐公人という人は、わたくしにとってそういう存在である。
  暗夜を照らす一燈か、何も案ずることはない、何も憂うることはない、何も恐れることはない、わたくしは、ただ、この一燈
  を頼む。
  ありがとうございます。これからもご指導のほど宜しくお願いいたします。

               2018年6月17日
           
                                星置9条の会呼びかけ人  中本 雪人


      NO  13 

           
          6月の花  アベリア

       
           

   先の見通しを持つということは、すでにあった事実の中から、ある一つの方向をもった流れを見つけ出すということである。

                      加藤周一  9条の会呼びかけ人



         呼びかけ人(順不同)

       尾張正、五十嵐公人、小坂利幸、小坂亨子、塩谷昭子、吉原宏、
       福盛田恵美子、村上テル子、中本雪人、山本正、島田敦子、
       垂石豊、曽川伸晃、作田信子、福盛田 勉、阿部祐二

                  ※  五十嵐公人さんの新しい住所
                         〒004-0916  中央区南16条西18丁目1-15

                  星置9条の会  事務局
                 2018年6月17日・日曜日


 
       NO  12

          「閉会の辞」

   この度・五十嵐公人さんが星置を離れ中央区に転居されることになりました。五十嵐さんは2005年「星置9条の会」
  設立時の呼びかけ人のひとりであり、爾来13年の長きにわたり「星置9条の会」世話人の重鎮として活動されてきまし
  た。その間7年前には大病を克服され、2年前には傘寿を祝い、最近は「改憲NO!全国統一署名」運動の先頭に立っ
  て大奮闘されました。五十嵐さんのお話は物静かな中にも凛とした説得力があり、内に秘めた闘志が伝わってきていつ
  も敬服しておりました。今後は活動の拠点を中央区に移されることになりますが、札幌は一つです、また機会をみてご
  指導いただければ幸いです。
   さて安倍暴走政権はいよいよ追い詰められてきました。昨年、野党が憲法53条に基づき臨時国会の開会を要求した
  のに対し、安倍総理はこれを無視し、国会を解散するという暴挙に出たのです。
  現行憲法さえ守れない安倍総理に憲法改正を言う資格は全くありません。
  隠蔽(インペイ)、捏造(ネツゾウ)、改竄(カイザン)、廃棄(ハイキ)、虚偽(キョギ)答弁など前代未聞の悪事を重ねるアベ
  政権をこれ以上続けさせるわけにはいきません。
   天網恢恢疎にして漏らさず、主権者たる私たちがしっかりと審判を下しましょう。
  全国津々浦々で「九条の会」が立ち上がり、声をあげています。
  私たち「星置九条の会」も一歩前に進みましょう。
  星置のみなさん、一緒にがんばりましょう。
  五十嵐さん、いつまでもお元気で。
  
            星置9条の会呼びかけ人  吉原 宏
                              2018年6月17日・日曜日


 

     星置9条の会    

 第39回交流会  「対話と文化のつどい」のご案内

    

  みんなで語ろう。

 今、言わねばならぬこと、今、聞かねばならぬこと、

 そして、今から、此処から、私から。 
 

1 お話 「私と憲法」

        五十嵐 公人

 2  アトラクション

      フルート演奏  塩谷 務

       

 3  朗読 向田邦子作「冬の運動会」より

      吉原美智子 

 日時  6月17日・日曜日

      処  星置地区センター

          星置2条3丁目

     時間  午後2時~4時

            参加費 500円

主催  星置9条の会

 

  ※   出欠の連絡先はこちらへお願いします。 事務局 五十嵐  685-5596

                       中本   Nakamoto.y@outlook.com




 

          星置9条の会

    

      

世話人会議 

     2018・4・7  夢トピアコスモプラザ 

 

 1 事務局からの挨拶(中本)

 2 経過報告  昨年の5月3日の安倍首相の改憲発言から今日まで、(五十嵐)
             都議選、青空フェスタ、総選挙、

 3 全国9条の会の訴えと、その具体化について(五十嵐)
         市民と野党の共闘の中での運動の進め方(学習+街宣)
         とりわけ「安倍改憲NO市民アクション」との連帯
         3000万署名達成のための方法
         共産党、立憲党、市民団体、他の9条の会などとの連帯
         地域住民の高齢化にたいする対応
         星置全体に9条の会の運動を広めること(その方法)

 4 「提案」組織の再構築と活性化について(中本)

 イ  、激変する状況に対応するために事務局を設ける。
   情報の発信と受信の能力を高めるため

  ロ 今後は他団体との交渉と連帯が重要な活動域となるので、その窓口として新たに代表を置く。
   皆さんの同意が得られれば代表には五十嵐さんにお願いしたい。五十嵐さんの見識、経験、
   人脈を運動の中で最大限に活かし、また、私たちもそこから多くの事を学び取ることがで
   きるだろう。

  ハ  事務局は、代表を五十嵐、事務局長を中本、補佐を曽川とし、当面は3人体制で運営する。
  尚、財務管理はこれまで通り中本が担当する。

  5 財務について(財務報告書・別紙添付)

     イ、 現時点ではプラス・マイナスは0、「39回学習会」(6月中旬)の予定もあるのでカンパ
  をお願いしたい。

     ロ、星置9条の会の幟(のぼり)の作成を検討しています。すべての他団体との連帯共闘の場では
 この幟を掲げるつもりです。

  6 その他

      39回学習会の日程など。

    



   
 

      事務局長・挨拶

     「
状況(シチアシオン)」2017年・夏

 

 一個の人間が、自己を歴史化することによって、人間全体に関し、その時代の人間のすべてに投げかける・
 時代的特殊的よびかけである。

                      J・P・サルトル

    おはようございます。
  今日、この場に参加された皆さんは、世代も経歴も思想・信条も異なる人たちですが、今を生きる日本の一市民の一人
  として、今何をしなければならないのかという一点において志を同じくする人たちです。それは先の大戦の反省と教訓
  から学びとった、普遍の原理としての
反戦・平和を高らかに歌い上げる憲法九条を守ろうという立場においての連帯です。
    九条の会は、皆さんご承知の通り2004年(平成16年)に文学者の加藤周一さんら9人が最初の呼びかけ人となっ
  て立ち上げられた護憲の市民運動です。
  護憲と言うと、何か国内の政治問題のようにも聞こえますが、九条が単に日本国内の安全を保障することを目的としたも
  のであれば、加藤さんたちはこの運動を立ち上げることはなかったでしょうし、また世界の各地・各分野からこれほどの
  称賛と連帯を表明されることもなかったでしょう。
    実は、九条は単なる国内法ではなく、歴史・民族・体制の違いを超えてあらゆる価値に優越する普遍の平和憲章なので
  す。この思想は、古くは
人道主義(ヒューマニズム)と呼ばれたものです。それは国境や政治的立場を越えて人間の倫理と
  は何かと、問うた運動です。

   最初の呼びかけ人の9人の中には政党人・宗教者の名前は見えません。
   このことは偶然ではないと思います。おそらく、加藤さんらが描いた構想には、この運動を党派的なものや宗派的なもの
  を超えたところに展開し、そして発展させたいという思いがあったのでしょう。では、そこでもっとも重要だとされたテ
  ーマとは何かということですが、おそらくは
人権(生存権)立憲主義ということではないでしょうか。フランス人ならば、
  
自由・平等・友愛というかもしれません。
    2011年の時点では、全国で7500の「九条の会」の活動が確認されています。その中には念仏者やキリスト者や
  映画人や引きこもりの人たちやシングルマザーの繋がりや保守系の人たちのものもあり、もちろん地域や職域のものもあ
  り、その他様々な九条の会があります。それこそ思想・信条の違いを超えてです。

   2004年の6月10日に発表された「九条の会」アピールでは次のようなことを訴えています。

    私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。
   そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして、選び直し、日々行使し
  ていくことが必要です。

   それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。
   日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりが
  できる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。


    ところで、「九条の会」が誕生した2004年というのはどういう年だったでしょうか。この年の1月19日、自衛隊が
  イラクに派遣されました。時の総理大臣は格差拡大肯定の
「新自由主義」の信奉者であり、靖国神社参拝を積極的に行う
  古主義者
の小泉純一郎でした。アジア蔑視と対米従属の軍拡路線の始まりです。この時から国際平和への貢献というもの
  に軍事的な意味合いが込められるようになりました。これが国策的には二度目の
脱亜入欧であり、富国強兵です。
   その目標とするところは天皇を元首とする大日本帝国の復活です。このことは平成24年に発表された自民党の「日本国
  憲法改正草案」
の中にはっきりと書かれてあります。これはA級戦犯であった岸信介の唱えた「中型帝国主義」の明文化で
  す。具体的に言えば、それはアメリカの了解のもとにアジアでの覇権を握るということです。この構想には財界の支持も
  ありました。
経済進出ということです。そのころから企業の動態を表す経済用語に「国益」という言葉が頻繁に出てくる
  ようになりました。つまりこの国の支配層が
「産軍共同体」という形を取り始めたということです。そして、国内のメデ
  ィアは正確な報道をしませんが、この頃から海外のメディアは日本の
右傾化について懸念と警告を示すようになりました。
    「九条の会」の最初の呼びかけ人9名の生年月日は以下の通りです。
      1 三木睦子  1917年生~2012年没
      2 加藤周一  1919年生~2008年没
      3 鶴見俊輔  1922年生~2015年没
      4 梅原 猛  1925年生
      5 奥平康弘  1929年生~2015年没
      6 澤地久枝  1930年生
      7 小田 実  1932年生~2007年没
      8 井上ひさし 1934年生~2010年没
      9 大江健三郎 1935年生
    最高齢の三木さんと最若年の大江さんの年齢差は18歳です。この9人が敗戦の朝、何処で何をしていたのかは詳しく
  は知りませんけれども、共通しているのは皆さん戦前の生まれだということです。つまり、戦争を知っている世代の人だ
  ということです。

   そういう人たちが、思想・信条の違いを超えてこれだけは守らなければならないと思ったものが「憲法九条」であり、こ
  れだけは伝えなければならないと思ったものが市民運動としての九条の精神でしょう。

    2007年11月24日の「九条の会全国交流会」の場で加藤さんは「『守る』ことと『生かす』こと」と題して次の
  ようなことを語りました。


    憲法を改正するのは戦争のためで、いきなり戦争できるようにこの国をするためです。
  しかもそれはこれから先、何年間にわたってです。改憲がゆっくりくるようになると長丁場にならざるを得ないわ
  けで、これからは問題が複雑になると同時にゆっくり進むようになるでしょう。

  劇的な花火を打ち上げるという形ではなくて、日常的に地道に抵抗を続けていくよりしょうがないと思います。
  少なくとも、その面を含まなければならないと思う。だから二つあると思います。

   第一は、おそらく長丁場であるということを意識して運動をやるということ。今年だけ運動が活発なのでは駄目
  で、長く活発にやる。拡大した組織は、ゆっくり大きくなる。劇的に大きくならないけれど、ゆっくり確実に大き
  くなるのだということをはっきり意識しなくてはならない。これは大きな仕事だと思います。

  しかし、意識的にそういう方向に動くべきではないかと、私は思います。
  それから第二は、あまり抽象的なことばかりでなく、すべての問題を日常性に結びつけなければいけないというこ
  とです。憲法を改正しよう、改憲をしようという勢力の政治的方角は、福祉の縮小であり、対外的な戦争の容認で
  す。
彼らはそういう方角に目標を切り替えようとしていると思います。
  我々は日常生活であらゆる手段をとって、それに対して反対する。
   教育について、年金について、何についても反対すべき政策が非常に多いけれども、それらは相互に関連しています。
  その相互に関連したもの全体に反対することがたいせつで、つまるところそれこそが憲法を守るだけでなく積極的に

   生かしてゆくことではないでしょうか。
  これから先、大変だと思います。でもどうか皆さん、一緒にできるだけのことをしましょう。一緒にできることは
  沢山-限りなく沢山あるのです。


    加藤さんは、民主主義の立場から見て「憲法九条」が長い日本の歴史の中で一つの到達点であり、また後に続く世代が創
  るであろう未来に向けての出発点であると考えていたのではないでしょうか。おそらくは、和漢洋の三界を自由往来の大知
  識人であった加藤さんはこの運動を市民が主体となった
「文化革命」と捉えていたのでは、それを提唱し、そこに自ら積極的
  に参加することは戦前を知る加藤さんにとっては
「知識人の責任」を果たすことだったのではないでしょうか。
    実存主義者のジャン・ポール・サルトルは、政治的な「参加」を「アンガージュ」といいました。これは市民の権利とし
  ての「行動」のことです。「行動」を伴わない「知識」は、ほんとうの「知識」とは言えないという考え方です。中国の人
  ならば「知行合一」というのでしょうか。

    加藤さんは、こう言っていました。
  先の見通しを持つということは、すでにあった事実の中から、ある一つの方向をもった流れを見つけ出すということである。」
    そして、2017年の「今と此処」です。「状況」はどうでしょうか。
   小泉純一郎の時代は終わって跡を継いだのは弟子の安倍晋三です。この人は暖かい部屋の中で外祖父であった岸信介の膝の上
  で外から聞こえる安保反対の悲痛な叫び声を子守歌にして育った男です。理念も政策もすべて外祖父から受け継いだまるでコ
  ピーのような二流の男ですが、その人物が今の総理大臣であることは現実なのです。
  民意無視の強権むき出しの反知性主義、状況は1960年と同じです。また2004年とも。まさにファシズム前夜です。

   加藤さんには、いつかこの日が来るという予感があったのでしょう。
  その根拠は、この国が戦後、先の戦争についての総括を出来なかったということ、もう一つはこの国の近・現代というものが
  常に権力の主導によってなされ、この間一度も市民革命というものを経験することがなかったということです。

   ここで問題となるのは、経済的発展とは別な次元での文化的後進性ということです。
   これらの状況を克服する方法として九条の会は設立されたのではないでしょうか。この運動を受け継ぎ、そしてより多くの
  人びとに伝え、連帯の輪をより大きくし、持続の志を不屈に守り抜くこと、それが反ファシズムの文化革命というものなの
  ではないでしょうか。

    戦いはこれからです。戦後生まれの人たちが始める戦いはこれからです。
   しかし、戦後生まれと言っても、敗戦の年の1945年(昭和20年)に生まれた人は今では72歳です。決して若くはあ
  りません。そして1989年(平成元年)生まれの人は今年28歳となります。ここでも既に何かに憧れて夢を見る少年時
  代は終わっています。それ以降の人たちとなると、つまり現在の少年・少女ということですが、この世代ではベトナム戦争
  の記憶もありません。

   同じ戦後生まれといっても、戦争を知らないという一点を除いては、昭和と平成(その前期と後期)ではその原風景には共
  通するものは全くないでしょう。
   どの時代に生まれたとしても歳月が経てば人は高齢化します。これは自然現象ですから、このことを倫理的な次元で問題と
  することは出来ません。しかし、それが記憶の風化を肯定し、歴史に背を向ける
修正主義を跋扈させるとなれば、ことは単
  なる政治上の主義・主張の問題ではすまされないでしょう。
  簡単に言えば、「あったこと」を「なかったこと」にするというのは人間性に対する裏切りです。
   考えますに、加藤さんらが「九条の会」という器を作って実現しようとしたものは、もちろん第一には戦争は人類に対する
  犯罪である告知する「憲法九条」を守るということですが、それは目的であって、方法ではありません。

  では方法とは何かということですが、第一は「伝えること」です。これは記憶の風化に対する抵抗ということです。第二は、
 「声を上げること」です。これは主権者として悪政を倒すということです。第三は、「手をつなぐこと」です。すべての不条
  理に対して市民が連帯して立ち上がり
「自発的隷従」を拒否すること、ここからしか民主主義は生まれません。
   情勢は激変しています。その原因は色々と考えられるでしょうが、ここまで追い込んだのは市民の怒りであり、それが「市
  民と野党の共闘」
を呼び起こし、選挙のたびに少しずつ変化を目に見えるものとして作り上げてきたのです。この変化はまだ
  十分なものではありませんけれども、これが潮流として新たな状況を作り出しているということには確信がもてます。何故と
  言うに、現に今日ここに
多くの人が集まっているからです。そして、こういう運動体が全国に7500もあるという事実です。
  この草の根の運動をマーク・トウエインは
「戦闘的民主主義」と呼びました。
    皆さん、この状況の変化をもっと推し進めようではありませんか。
   私たちの今日のために、後に続く世代の明日のために。
  「憲法九条」を持つに相応しい国を作るために、今から、此処から、立ち上がろうではありませんか。

                                                         星置九条の会   中本 雪人

      「シチアシオン」はサルトルの評論集の題名です。
       本は1964年(昭和39)に人文書院から全38巻で刊行されたものです。その第九巻に収められている「文学と
     はなにか」は加藤周一さんの翻訳によるものです。中古本はアマゾン(ネット通販)で購入できます。

 
   


   



    
        9条の会

      石川文洋・札幌講演会  

       「ほんとうのことを知りたい !
             石川文洋が見た戦争と人間」
 


              2017年6月3日(土)   午後6時30分~
               札幌エルプラザ3Fホール(北区北8条西3丁目)
   共催:たかさき法律事務所9条の会  グリーン9条の会
        医療9条の会・北海道  北海道合唱団

             プログラム   司会 渡部敏広弁護士
   ※  開会の挨拶
   ※  講演
   ※  質疑応答
   ※  閉会      
 


   

 

 

プロフィール

   1938年  沖縄県那覇市首里に生まれる
   1964年  毎日映画社を経て、香港のファーカス・スタジオに勤務
   1965年1月~1968年12月フリーカメラマンとしてサイゴン(現ホーチミン市)に滞在
   1969年~1984年  朝日新聞社カメラマン
   1984年~現在  フリーカメラマン

 

  

     <受賞・その他>
   日本写真協会年度賞(1973年)日本雑誌写真記者協会賞(1982年・1983年)
   日本ジャーナリスト会議〔=JCJ〕特別賞(1990年)市川市民文化賞-スウェーデン賞(1997年)
   ベトナム政府より文化通信事業功労賞(2005年)

   ◇1998年9月 ベトナムのホーチミン市戦争証跡博物館内に石川文洋写真常設展示室が開設
   ◇2009年9月 沖縄市「戦後文化資料展示室ヒストリートⅡ」開設。石川文洋の写真が随時展示
   ◇2014年6月 大宮浩一監督によるドキュメンタリー映画『石川文洋を旅する』公開。

     <写真展>
   『戦争と兵士と民衆』(1970年) 『北ベトナム』(1973年) 『南イエメン』(1978年)
   『カンボジア 民衆とアンコール遺跡』(1981年) 『北朝鮮』(1984年)『大航海時代』(1987年)
   『普賢岳・深江町の1年』(1994年) 『ベトナム報道35年・戦争と平和』(1998年)
   『沖縄の基地とアメリカの戦争』(2000年) 『沖縄・復帰30年』(2002年)
   『日本縦断 徒歩の旅-65歳の挑戦-』(2004年) 『世界の笑顔』(2007年) 『四国遍路』(2009年)
   『アフガニスタン・2002年』(2010年) 『戦争と子どもたち』(2012年)
   『石川文洋が見たフクシマ』(2013年) 『戦争と平和・ベトナムの50年』(2014年)
   『ベトナム戦争と沖縄の基地』(2014年) 『辺野古とオスプレイ』(2015年)  ほか

    <主な写真集・著書>
   『写真記録ベトナム戦争』(㈱金曜日) 『戦場カメラマン』・『報道カメラマン』(朝日文庫)
   『戦争はなぜ起こるのか –石川文洋のアフガニスタン-』 (冬青社)
   『日本縦断 徒歩の旅 -65歳の挑戦-』『カラー版 ベトナム 戦争と平和』(岩波新書)
   『サイゴンのコニャックソーダ』 (七つ森書館)『私が見た戦争』 (新日本出版社)
   『まだまだカメラマン人生』 (新日本出版社)『命どぅ宝・戦争と人生を語る』( 新日本出版社)
   『フォト・ストーリー 沖縄の70年』(岩波新書)  ほか多数

 
           



           石川文洋語録 
     
       怒り、哀しみ、誇り

 
  戦争を見てきた在日沖縄人の私が本土の人に、ベトナムと沖縄のことを伝えるのが私の仕事だ。

   
肩書は「報道写真家」だが最初に覗いたファインダーはムービー。大学受験失敗後、ニュース映画
   世界へ。安保闘争取材で国会に通い、目前でデモに参加していた樺美智子さんが亡くなった。沈鬱
   な日常から逃れようと世界旅行を決意。最初の香港で、カメラを回した経験が買われ報道の現場へ
   戻った。

    日本人である前に沖縄人であると感じてきた。本土の人たちに沖縄のことを伝えるのが私の義務
   、仕事だと思っている。ベトナムで見てきた戦争は、沖縄の基地も深く関わっている。

    私が生まれた38年、国家総動員法ができた。大本営発表できちつと報道されなかったが、そもそ
   も日本の報道には権力を監視し、弱者に寄り添う姿勢がなかったのではないか。戦後は毎日を除き、
   朝日も読売も戦場のネガをほとんど焼いた。GHQが来ると戦争犯罪の証拠になりかねないと。

   戦争を知らない政治家やジャーナリストが増えたのが大きいんでしょう。2003年のイラク爆撃の時、
  小泉純一郎首相(当時)はいち早く米国を支持しましたが、爆撃の下に子どもがいるという想像力が
  小泉氏にはないわけですよ。安倍晋三首相も、憲法解釈を変えることで、どんな危険があるのかを、考
  えきっているとは思えないですね。

   政府は、辺野古基地建設は国策であり、日米同盟を強化し日本の安全を守る抑止力になると考えて
  いるが、有事の際、強化された基地は標的になり、危険性は高まる。
   沖縄の民意を無視して基地建設を強引に進めると、政府に対する反感はますます強くなる。民主国家
  を守り、国民との信頼関係を築く上でも、辺野古新基地は中止すべきである。



 
         九条ネットワーク北海道第6回経験交流集会

          2017年5月27日・土曜日  札幌市・Lプラザ3階ホール・研修室

         「市民の力で野党共闘を !  安倍政権に終止符を!」
 
   13:15  入場開始
   13:30  集会主宰者挨拶(共同代表 岡野 哲)
   13:35  第一部(5野党の意見・決意表明、一部メッセージ)
           民進党:衆議院北海道二区予定候補  松村けんこう氏(予定)
           共産党:日本共産党北海道委員会書記長  千葉 隆氏
           社民党:社民党北海道連合幹事長  浅野隆雄氏
           新社会党:新社会党北海道本部書記長  小柳政行氏
           市民ネット:メセージ

   15;10  分科会
           第一分科会:(3階ホール)野党代表への激励と、質疑・討論
           第二分科会:(4階研修室)九条の会活動一般経験交流
           第三分科会:(4階研修室)地域活動交流
           第四分科会:(4階研修室)層別分科会、又は「共謀罪学習」スライド

   16:30  (3階ホール)纏めの集会・主催者からの訴え

   16:40  集会終了

    参加団体  清田区9条の会、中央区9条の会、小樽山の手9条の会、平岸9条の会
            豊平9条の会、南区9条の会、西区山の手9条の会、北区9条の会、
            苫小牧9条の会、東区9条の会、西岡9条の会、室蘭9条の会、星置9条の会







  星置9条の会 年譜

       

    呼びかけて、手をつなぎ、声をあげ、

      共に立とうではないか!!
                                    (敬称略)

  

 

  「九条の会」は2004年(平成16年)の6月10日に発足した。

  呼びかけ人は、井上ひさし、梅原 猛、大江健三郎、奥平康弘、小田 実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、
 三木睦子の9人である。この会の目的は、日本国憲法第9条を護るということにあった。思想・信条の違いを
 超えて護ろうとする運動である。この日、発表された「九条の会」アピールの結びには次のように書かれている。

  【私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法 九条を激動する世界に輝かせたい
 と考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものと
 して選び直し、
日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者 の責任です。
 日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点
で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、
 一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。】

   この呼びかけに応じて翌年の2005年には全国各地で様々の分野において行動する人々の会が創られ7月30
 日の時点では3000を超える「九条の会」が確認され、2016年の今現在では7500の会が活動している。

  我が町星置では2005年の1月30日の午後2時、塩谷宅で「星置9条の会」発足の準備会が開かれ、参加者
 は伊藤太郎、阿部事夫、福盛田恵美子、吉原宏、小坂利幸、小坂享子、尾張 正、五十嵐公人、塩谷敏彦の9名。
 この時の講師は尾張正氏で『憲法が危ない』と題してのものであった。その後、伊藤太郎画伯を会の代表とし、事
 務局長には塩谷敏彦氏がつき、3月の5日(土)にコスモプラザで設立総会を開催した。

 星置9条の会の歴史はここから始まる。


      
 NO 1 

               星置9条の会

           第38回学習交流会


      講演と文化を語るつどい

 



   特集

「原発いらない!!」
 
日時 10月30日(日)  午後2時~4時

場所 星置地区センター   星置2条3丁目

   参加費(資料代)     500円
 


 
     プログラム
   
     司会  福盛田恵美子
   
受付  島田敦子

    講師  石井和眞 

     
1 呼びかけ人代表挨拶  五十嵐公人
       2 日本国憲法(第9条)朗読  中本雪人
        3 アトラクション  
      
             フルート演奏  塩谷 務 『鳥の歌』他2曲        
             詩・朗読   吉原美智子              
                   峠 三吉 『原爆詩集』から 

       4  講演「地震と原発事故・住民被曝」 
福島第一原発事故から学ぶ~講師 
            石井和眞  西区病院・放射線技師長
 

     
5 脱原発をめぐってのフロアトーク  進行係 垂石 豊
        6 みんなで歌おう「憲法9条五月晴れ」 塩谷昭子、村上てる子
        7 閉会の挨拶   吉原 宏
   

    ※
 関連資料
               1 孤島の黙示録         
              2 講師 プロフィール
              3 我が亡き後に洪水よ来たれ   
          4 原発分布図

              5 福島原発事故         
          6 泊原発

          7 斉藤武一意見陳述書      
          8 峠 三吉「詩文」

          9「鳥の歌」パブロ・カザルス 
  
          
10 サマータイムブルース  



 
 NO 2

       孤島の黙示録  
  
     
『新約聖書』

            


    われ見しに、視よ蒼ざめたる馬あり、之に乗る者の名を死といひ、陰府(よみ)これに随ふ、かれらは地の
  四分の一を支配し、剣(つるぎ)と、飢饉と死と地の獣とをもて人を殺すことを許されたり。

                      ヨハネ黙示録  六章八節  
    

  • 第一の封印:白い馬。勝利の上に更に勝利を得ようとして出て行く
  • 第二の封印:火のように赤い馬。戦争をもたらす
  • 第三の封印:黒い馬。飢饉をもたらす


                      


    
 NO 3

     講演「地震と原発事故・住民被曝」
   
        ~福島第一原発事故から学ぶ~

     
       講師  石井和眞 


                    勤医協西区病院 放射線技師長
  

    プロフィール


札幌生まれ。
82年 札幌東陵高校卒業
85年 中央医療技術専門学校卒業
 診療放射線技師免許取得
北海道勤医協に入職
     
  
      講演内容


  1 福島原発のおさらい
  2 被曝の基礎と福島住民の被曝 
 
 3 日本の原発と地震のリスク
  4 泊原発は大丈夫か?
     


 
 NO 4
         「我が亡き後に洪水よ来たれ」   

             ポンパドウール侯爵夫人(1721~1764)
   フランス王ルイ15世の公妾  

    1945年7月16日 トリニティ実験  米国ニューメキシコ州
 人類初の原爆実験 ガジェット
    1945年8月6日 広島に原爆投下
  B-29「エノラ・ゲイ」  リトルボーイ
    1945年8月9日 長崎に原爆投下
   B-29「ボックスカー」  ファットマン
    1954年3月1日   キャッスルブラボー作戦
 マーシャル諸島ビキニ環礁 水爆実験
    1957年10月10日 ウインズケール原子炉火災事故  レベル5
イギリスの核兵器開発
    1960年2月13日  サハラ砂漠で核実験  フランス
  世界で4番目の核保有国となった。
    1974年3月28日  スリーマイル島原子力発電所事故  レベル5
 アメリカ東北部ペンシルベニア州
    1986年4月26日  チェルノブイリ原子力発電所事故  レベル7
 旧ソビエト連邦(現ウクライナ)
    1995年12月8日  高速増殖炉・文殊  日本国福井県
 ナトリウム漏洩火災事故 レベル1
    1999年9月30日  東海村JCO臨界事故  日本国茨城県 
日本国内で初めて、事故被曝による死亡者
                を出した。 レベル4

      2011年3月11日  福島第一原子力発電所事故 日本国福島県 (株)東京電力 レベル7

        ※ 核保有国   アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、 北朝鮮、イスラエル。

       ※  世界の原発数は434基。アメリカ(99基)、フランス(58基)日本(43基)、中国(30基)、ロシア(30基)が
       上位5カ国である。日本には世界の原発の10%が集中している。
 
       これが世界唯一の被爆国である日本の現実である。

    
       



  
 NO 5

              原発分布図

       【原子力発電所の現状】(2016年10月現在)

     <1965年以来建設され稼動した原子力発電所の数>

    商業用原子力発電所 57基(国内に設置された稼動歴のある原発)
     (内訳)
     過酷事故廃炉決定      4基(東京電力福島第1原発)
     廃炉決定運転中止    8基(東電/中電/関電/中国電/四国電/九電/日本原電)
     廃炉作業準備中     1基(日本原電東海原発)
     政府要請運転停止    2基(中部電力浜岡原発)
     中越沖地震運転中止   3基(東京電力柏崎刈羽原発)
     東日本大震災停止中  9基(東北電力東通・女川原発/東京電力福島第2原発)
     定期点検審査停止中 25基

     再稼動後緊急停止    1基(関西電力高浜原発4号機) 

     運転差し止め命令停止 1基(関西電力高浜原発3号機 但し4号機を含む) 

     稼働中           3基(九電川内原発1号機2号機・四国電伊方原発3号機)

 

 


 


  

 NO 6


      福島第一原発事故

    2011年3月11日

 

  福島第一原子力発電所事故(ふくしまだいいちげんしりょくはつでん
 しょじこ)は、
2011311東北地方太平洋沖地震による地震動
 
津波の影響により、東京電力福島第一原子力発電所で発生した炉心溶
 融
メルトダウン)など一連の放射性物質の放出をともなった原子力事
 故
である。国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深
 刻な事故)に分類される。
20154月現在、炉内燃料のほぼ全量が溶解
 している

     【社会】

     震災5年 故郷戻れぬまま 原発避難者 移住6900件

        2016年1月31 朝刊

 

   東京電力福島第一原発事故で住まいを追われた福島県の避難住民が、二〇一一年三月の事故後、政府の制度を
  利用し県内や首都圏などに新たに土地や住宅を買って移住するケースが、毎年増え続けていることが本紙の独自調
  査で分かった。累計の移住件数は、一五年末現在で約七千件。元の住まいに戻れる見通しが立たず、避難先などで
  生活再建を図ろうとしている実態が浮かんだ。 (小倉貞俊)

   移住しても、住民票はそのままにしている避難住民が多いため、どれくらいの人が移住したのか実態はつかみにくい。
  本紙は、避難指示区域の住民が移住先で不動産を買うと不動産取得税が軽減される特例がある点に着目。福島県の
  ほか、避難者の多い十一都道県に適用件数を聞き取りし、主な状況を調べた。

   その結果、一一年度末では六十六件だったが、一二年度末には累計で七百四十五件に増え、一三年度末は二千百
  九十件、一四年度末には四千七百九十一件にまで増えた。一五年度は昨年末時点ながら、六千九百九件にまで増え
  た=グラフ。このほか、他の府県での制度の適用例や特例を使わないケースもあるとみられる。

   移住用に家や土地を購入した先は、全体の約九割が福島県内(六千八件)。次いで多いのが、隣接する茨城(二百八
  十五件)や栃木(百五十六件)、宮城(百十五件)の各県だった。いずれの都道県でも毎年増えている。

   政府は帰還困難区域を除く避難指示区域を一六年度中に解除する方針を示しているが、福島第一周辺はいまだに広
  く汚染されている。仮に避難指示が解除される状況になっても、放射線の影響への不安があるほか、商店や病院、学校
  など暮らしの基盤がどこまで元のような姿になるのか見通すのは非常に難しい。

  五年近い避難の中で、新たな仕事や通学の関係から、避難先に根づき、生活再建しようとする住民も多い。

   福島県の担当者は「避難先での基盤が固まってきた一方、故郷に戻ろうにも生活の厳しさがある。事故後五年を迎え、
  帰る、帰らないの判断をする時期に来ており、今後も移住が増えていくのでは」と分析している。

   大阪市立大の除本理史(よけもとまさふみ)教授(環境政策論)は「元通りの暮らしを期待して故郷に戻りたい住民、
  人口減を何とか食い止めたい避難元の自治体、避難者の数を少しでも減らしたい政府、と三者で思惑にずれがある。
  避難者のニーズにそったきめ細かい施策が必要だ」と強調している。

  <福島県からの避難住民> 政府の統計では、福島第一原発事故の避難者数は2016年1月14日現在、自主避難
  含め9万9000人とされる。このうち、県外への避難者は4万3000人に上り、北は北海道から南は沖縄まで全都道府
  県に及ぶ。特に多いのが東京都(6000人)などの首都圏と、福島県に隣接する山形、宮城、新潟県。ピーク時の16万
  4000人(12年5月)から減っているが、数多くの人が先行きの見えない暮らしを送っている。

 

 


 
 
 NO 7

        泊原発

           「ウキペディアより」

所在地

北海道古宇郡泊村大字堀株(ほりかっぷ)

運転開始日

19896

事業主体

北海道電力

   

福島第一原子力発電所事故後[編集]

   3号機は、2011(平成23年)1月5から第1回定期検査に入り、3月7に調整運転として発電を再開した当初は
  4月にも最終検査を受けて営業運転を再開する予定であった。しかし、
3月11福島第一原子力発電所事故が起き、
  北海道電力は営業運転再開に向けた申請を延期したため、
8月10に経済産業省が定期検査修了証を発行するまで
  4か月という異例の長期にわたってフル出力状態の調整運転が続いた。

 この営業運転再開は福島原発事故以後では初である。高橋はるみ道知事は運転再開を容認する姿勢を示してきたが、
  これは拙速だと批判する道民の声もあった。知事は周辺4町村の意見を聞くとしたが、10 km圏外の15町村には再開に
  ついて説明がなかったため、道や北海道電力へ協議を申し入れた。また、道内の38人は営業運転を認めないよう国に
  求める訴えを札幌地裁へ起こした。

 国のエネルギー政策や安全指針が明確になっておらず、反対の立場や慎重な姿勢をとっている道民も多い状況の中で、
  この運転再開を容認する姿勢を見せる高橋はるみ道知事の資金管理団体「萌春会」の会長は、北海道電力元会長の南
  山英雄であり、北海道電力役員が「萌春会」に対して役職に応じて決まった額の個人献金を毎年していることを
東京新聞
  が報じている。

    国は、この営業運転再開に対し、定期検査中の原発の再稼働には当たらない見方を示し、政府が福島原発事故を受け
  て原発再稼働に必要だと定めた
ストレステストを義務付けない代わりに、通常行われる原子力安全・保安院のチェックだ
  けでなく
原子力安全委員会も含め二重にチェックするとした。しかし、原子力安全委員会の班目春樹委員長は保安院の
  報告を受け、「定期検査は保安院が責任を持って行うものである」と
8月11の委員会で発言し、委員会としての判断を
  示さなかった。

   原子力資料情報室の共同代表を務める伴英幸は、311日の福島原発事故以降8月まで定期検査を終了する原発が
  なく、この状況が続くと20123月には日本中の全ての原発が停止するはずであったが、原子力安全・保安院が全機停止
  を避けたかったために泊発電所の営業運転再開を認め、これを突破口に他の原発も運転再開することを図っていると述
  べた。

やらせ事件

    詳細は「北海道電力#泊発電所関連シンポジウムでのやらせ事件」を参照

   2011年の福島原発事故をきっかけとして、国と電力会社の原発に対する姿勢や数々の問題について国民が注目するよう
  になった中、
九州電力玄海原発運転再開に向けた説明会でやらせメール事件を起こしたことが発覚し、国会で取り上げ
  られて重大問題となった。

   7月のこの事件の発覚の後、北海道電力も泊発電所の3号機増設やプルサーマル計画導入に向けて、2000の「道民の
  ご意見を聴く会」と
2008の「プルサーマル計画に関する公開シンポジウム」で、社員や住民に対して計画賛成の意見を表
  明するよう要請していたことが明らかになった。

   第三者委員会の報告書が北海道電力の組織的関与を認め、10月には佐藤佳孝社長が道議会の産炭地域振興・エネル
   ギー問題調査特別委員会に参考人として出席を求められた。しかし、佐藤社長は、自身を含む上層部の関与については
   「承知しておりません」と述べ、辞任も否定した。

       「国内の稼働原発ゼロ」へ

   上述のように、泊発電所3号機は、201137日に調整運転として再稼働し、817日に正式な営業運転に移行したが、
  
20125月5233分定期検査のため停止された。福島原発事故後新たな原発再稼働がないため、この停止によって日
  本国内で稼働している原発はゼロになった。国内の原発全停止は1970年以来42年ぶりである。定期検査は71日間かけて
  実施される予定である。

   20124月23に北海道電力が公表した夏の需給見通しでは、泊発電所1 - 3号機と苫東厚真発電所4号機が停止する
  状況となり、猛暑を想定すると需要に足りず、節電をお願いせざるを得ない可能性がある状態であり、同発電所1,2号機の
  早期再稼働への理解を求めたいとしている。また、55日の3号機停止(北電管内、日本国内の全ての原発の停止)を受け
  て、同発電所は北海道の電力の安定供給にとって重要な基幹電源であり、1日も早い発電再開を目指すといったコメントを出
  した。

  しかし、北海道電力の夏の需給見通しに対して、需要が実際に2012年夏の供給力見通しを上回ったのは2011年夏は2
  間、猛暑として参考にしている
2010夏でも48時間であり、節電をすれば夏を乗り切れ、また地震と原発事故があった本州
  並みの節電をすれば、需要がピークになる冬も原発なしで乗り切れると指摘する専門家もいる。

     


 NO 8

斉藤武一・意見陳述内容

      「泊原発によって故郷はねじ曲げられ、苦悩の道を歩んでいる」
         廃炉訴訟原告団 団長 斉藤武一


 

 
  岩内町の斉藤武一です。これから、泊原発の現地の話をいたします。裁判長に
  置かれましては、初めて聞くような話となると思いますの、しっかりと聞いてもらい
  たいと希望いたします。

 

   岩内町からは、岩内湾を隔てて泊原発が真正面に見えます。原発までの距離は5、6キロです。最初に、原発を見ながら生活する
  ということはどういうことになるのかを話します。私の娘が小学五年生の時のことでした。小学校の先生が「将来、大きくなったら故郷
  に残る人は手を挙げてほしい」と尋ねました。しかし、クラスの誰も手を挙げませんでした。先生は驚いて生徒に聞くと、男子生徒が立
  ち上がり窓から見える泊原発を指さして「だって、先生、あれが爆発したら僕たちは終わりなんでしょう。だからこの町にはいたくありま
  せん」と話しました。そして町民は「泊原発で事故があったら、どうせ全滅だ」と投げ捨てるように言い「いつか、泊原発でも事故が起き
  る」と心の底で思いながら暮らしています。その町民の気持ちが端的に表れたのが、
1993年に起きた北海道南西沖地震のときでした。
  大津波警報が入る中、町民は高台に逃げました。夜でしたから、津波は黒い線のように見え、沖から押し寄せてきました。その津波を
  見ながら、町民たちは大声で、「津波で家が流されるのは仕方がない。しかし、原発が壊れて放射能をかぶって死ぬのはごめんだ」「原
  発はどうなっているんだ」と、泊原発への怒りをぶちまけていました。

   次に、泊原発が町にやってきて、岩内の基幹産業であった漁業がどうなったのかを話します。岩内の漁師たちは、12年間原発に反対
  しました。しかし、お金の力でねじ曲げられ賛成へと転じていきます。そして、漁業振興資金として北電から
26億円もらいましたが、600
  の組合員で個人配分しました。最大でも
1500万円しかもらえなく、漁協にあった借金が少し減っただけでした。原発に賛成すればたくさん
  お金をもらえると期待していた漁師の手元には、一円も渡りませんでした。漁師は、やる気を失い、漁師の夜逃げが始まりました。原発に
  賛成していた
1981年を境に、岩内の漁業は崩れていきました。現在、漁業はほぼ全滅しています。

   泊原発が来てどうなったのか、その結末ですが、基幹産業である漁業を失った岩内は、原発から仕事をもらい、原発で働きと、完全に
  原発に依存しています。今、岩内で産業といえば、原発作業員のための民宿経営となっています。私の故郷、岩内は、泊原発によって町
  全体がねじ曲げられ、心の底で原発事故を心配しながら、町民は、「活気がなく、死んだような町になってしまった」と嘆きながら暮らして
  います。そして、かつて原発に賛成していた町長でさえ、「人間なら、誰があんな原発をほしがる者がいるものか。原発から金をもらえるか
  ら賛成しているだけだ」と、本音を漏らしています。故郷は原発からの巨額のお金でねじ曲げられ、苦悩しています。ですから、故郷、岩内
  の再生のためにも、さらに、原発のない新しい北海道を造るためにも、一刻も早く、泊原発を廃炉にすることが求められています。

 裁判長にお願いです。私がご案内いたしますので是非岩内に来てください。

泊原発の廃炉をめざす会

060-0808 札幌市北区北8条西6丁目2-23- 806
TEL: 011-594-8454 / FAX: 011-594-8455
Mail: info
tomari816.com (「*」は「@」に打ち替えて送信して下さい。)

 

 


 NO 9

峠三吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

   峠 三吉(とうげ さんきち、1917(大正6年)2月19 - 1953(昭和28年)3月10)は、詩人。本名は、三吉(みつよし)。
  日本共産党
党員であった。

   生涯

  父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれ、生後まもなく
  家族とともに父の故郷
広島市に転居した。
  幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の
広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそ
  しんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。

   さらに1945(昭和20年)8月6爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区)で被爆

   敗戦後は広島を拠点とする地域文化運動で中心的な役割を果たし、広島青年文化連盟委員長に就任した。広島県庁での勤務
  や雑誌『ひろしま』編集のかたわら、
1951(昭和26年)には「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を自費出版、原爆被害を告
  発しその体験を広めた。この自費出版版の表紙と挿画は四國五郎が描いた。

   1952(昭和27年)3月、新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院。その後は再び
  精力的に活動に奔走する日々を送る。

   1953(昭和28年)2月、創作活動・社会活動に耐えうる健康な身体を確実にするため、持病(気管支拡張症)の本格的治療を
  決意し、国立広島療養所
[1] に入院。肺葉切除手術を受けたが術中に病状が悪化、14時間の苦闘のすえ手術台上で死没した。
  36
歳没。被爆から8年後のことだった。

   峠の詩は、峠の死後50年が経過し、著作権保護期間が満了しているため、様々な平和教材に引用されたり、ネット上で閲覧する
  事ができる。

 

 

 

 

  ちちをかえせ ははをかえせ
  としよりをかえせ
  こどもをかえせ
 
  わたしをかえせ わたしにつながる
  にんげんをかえせ

  にんげんの にんげんのよのあるかぎり
  くずれぬへいわを
  へいわをかえせ

    八月六日

  あの閃光が忘れえようか!
  瞬時に街頭の三万は消え
  圧しつぶされた暗闇の底で
  五万の悲鳴は絶え

  渦巻くきいろい煙がうすれると
  ビルデイングは裂け、橋は崩れ
  満員電車はそのまま焦げ
  涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島

  やがてぼろ切れのような皮膚を垂れた
  両手を胸に
  くずれた脳漿を踏み
  焼け焦げた布を腰にまとって
  泣きながら群れ歩いた裸体の行列

  石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
  つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群も
  灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
  夕空をつく火光の中に
  下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
  焼けうつり

  兵器廠の床の糞尿のうえに
  のがれ横たわった女学生らの
  太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
  誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
  すでに動くものもなく
  異臭のよどんだなかで
  金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

  三十万の全市をしめた
  あの静寂が忘れえようか
  帰らなかった妻や子のしろい眼窩が
  俺たちの心魂をたち割って
  込めたねがいを
  忘れえようか!


     仮繃帯所にて

  あなたたち
  泣いても涙のでどころのない
  わめいても言葉になる唇のない
  もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
  あなたたち

  血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
  糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
  あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
  恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
  ああみんなさきほどまでは愛らしい
  女学生だったことを
  たれがほんとうと思えよう

  焼け爛れたヒロシマの
  うす暗くゆらめく焔のなかから
  あなたでなくなったあなたたちが
  つぎつぎととび出し這い出し
  この草地にたどりついて
  ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

  何故こんな目に遭わねばならぬのか
  なぜこんなめにあわねばならぬのか
  何の為に
  なんのために
  そしてあななたちは
  すでに自分がどんなすがたで
  にんげんから遠いものにされはてて
  しまっているかを知らない

  ただ思っている
  あなたたちはおもっている
  今朝がたまでの父を母を弟を妹を
  (いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
  そして眠り起きごはんをたべた家のことを
  (一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)
  
  おもっているおもっている
  つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
  おもっている
  かつて娘だった
  にんげんのむすめだった日を

             

 NO 10
 
    「鳥の歌」パブロ・カザルス

  1876年12月9日  生


 
1973年10月22日  没
      満96歳没   
  チェロ演奏  チェロ家・指揮者・作曲家      

  1971年10月24日の国際連合本部、ここでパブロ・カザルスは、「空飛ぶ鳥たちはこう歌うのです。ピース、
 ピース、ピース」と語った。原曲は、カザルスの故郷カタルー二
のクリスマス・キャロル。歌詞では、キリスト聖
 誕を祝うため鳥たちが集い歌う様子が描かれている。
 

  「私は長い間、公の場でチェロの演奏をしていませんでしたが、また演奏すべき時が来たと感じています」。この時、カザルスは
 94歳だった。
 
 
        塩谷 務 氏  (2016年4月24日・撮影)

   「パブロ・カザルス語録」
人生における最優先事項は、成し遂げたい目標を持って事にあたることだ」
 「人は音楽を作ったという、ただそれだけで素晴らしいのだ」


 「チェロは美しい女性のようです。彼女は老けることなく、時と共にますます
   若く、スレンダーに、しなやかに、優美になるのです」
 「いとも簡単に見える演奏は最大の努力からしか生まれない」


         
     「現代史または戦闘的ヒューマニズムのこと」  

 1936年に勃発したスペイン内戦の結果、フランシスコ・フランコ将軍が政権を握った。フランコ政権下では、
 カザルスの郷土カタルーニヤの言語、すなわちカタルーニヤ語の公の場での使用が禁止され、カタルーニヤ愛国主
 義と結びつく活動も禁止された。
 
   カザルスは1939年にフランスへ亡命した。他にも「7つのスペイン民謡」で知られるファリヤはアルゼンチン
 へ亡命し、そして「13のスペイン古謡」で知られる詩人ガルシア・ロルカは虐殺された。ピカソの絵画「ゲルニカ」
 は、スペイン内戦時を受けて1937年に描かれた。

  これより遡って1933年、ドイツではナチス政権が誕生し、トーマス・マンの兄であるハインリッヒ・マンをアカ
 デミーから追放し、その著書を焚書とし、続いてドイツ市民権を剥奪した。1935年、フランスで反ファシズム国際
 会議が開かれ、そこでハインリッヒはアンドレ・ジッド、ルイ・アラゴンとともに人民戦線に参加した。これよりさら
 に遡る。1927年、アンリ・バルビュスの
「反ファシズム宣言」に賛同者としてロマン・ロランが名を連ねている。
  そして1936年、アラゴンやアンドレ・マルローの発議、アンドレ・ジッドの司会によってロマン・ロランの生誕
 70年の祝賀会がパリで挙行された。

  「戦闘的ヒューマニズム」とは、ロマン・ロランの「人間の自由と尊厳を常に擁護する熱烈で誠実な実践」を評して
 言われた言葉だ。以上のことはヨーロッパにおける第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間に起こった知識人の抵抗
 の歴史である。

   九条の会の最初の呼びかけ人であった加藤周一さんにロマン・ロランについて書いた文章がある。
 『加藤周一講演集 
』かもがわ出版・1996年発行。 題して「ロマン・ロランの反戦思想とその歴史的意味」。
 加藤さんによれば、ロランの反戦思想の最大の特徴は「普遍主義」であるという。
   第一の特徴は、「強い個人的な信念の表明です。個人的信念が大衆の一致した意見に対して戦う。そういう一つの
  特徴があります。それはロランだけではないけれども、ロランの場合はそれが非常にはっきりしています」。
 第二の特徴は、「戦争という愛国心の爆発は極端に言えば一種の集団ヒステリーみたいなものです。敵対するドイツ人
  を獣のように言う。ばかげた、非合理なものです。そういう集団ヒステリーの非合理的な情熱に対して、彼は冷静な理
  性に
訴えたのです。それがロランの反戦の第二の特徴です」。
 
  そして三番目の特徴として加藤さんは普遍主義というものを取り上げる。
  「自分の国だけが特殊な価値、特殊な伝統、特殊な理想を強く主張するのが、すべての戦争イデオロギーに共通した傾向
  です。その意味で戦争イデオロギーは特殊主義です。ある特定の歴史的社会的集団に固有の価値があって、外の集団に
  は通用しないような価値を信じないと戦争はできない。日本の天皇でもそうです。最近亡くなって大喪があって、偉い
  天皇であったとか平和主義者であったとか新聞に書いてありますけれども、そうかもしれないし、そうでないかもしれ
  ない。ここで議論する問題ではありませんけれども、一つだけたしかなことは、そのすべてが日本人にとってだけの話で、
  韓国の人とか、中国の人にとってはまったく通用しないということです。天皇教というのは日本だけです。そういう意味
  で特殊主義です。
  それに対してロランは、簡単といえば簡単ですが、民族の違い、歴史的な条件の違いを超えて通用するような価値、ド
  イツ人にとってもフランス人にとっても通用するような人間的価値を強調した。価値の特殊性に対して普遍性を主張した。」
 この本の中で加藤さんは面白いことを教えてくれた。
  ロランは、反戦の立場を明確にしたために祖国フランスにいれなくなってスイスに亡命するのだが、そこにはもう一人
  の亡命者がいた。レーニンである。

   この偉大な文学者にもないものはある。加藤さんは言う。「ロランにないもの――社会構造の分析」と。「戦争反対」は
  もちろん正義である。しかし、その前になぜ戦争は起きるのかという「戦争のメカニズム」が解明されなければならない。
  この中立国スイスでもう一人の亡命者は『帝国主義論』を書いていた。
   ロランの反戦思想を受け継いで、レーニンの科学を以て資本主義の不条理を告発する作業、私の知るところ、それはジャン・
  ポール・サルトルから始まる。
  サルトルが亡くなった時、日本のフランス文学者である平井啓之さんは朝日新聞の文芸欄に「言語表現への全的信頼 大革
  命の原理復権図る
」と題して次のようなオマージュを書いた。


  思想家サルトルの最後の言語的営為が〈同胞愛〉を基礎として、人間の本源的生き方としての左翼を原理的に賦活するための努力
  であった、ということは、その事自体が感動的であるばかりでなく、作家として思想家としてのサルトルの存在が、人間精神史の上に
  いかなる意味をもつものであるかについて、大きな示唆を与えるものであ
る、という思いを禁じ難い。


    ロマン・ロランからサルトルまで、個々の知識人または芸術家の政治的立場は様々であって決して一様ではない、けれども
  そうしたものを乗り越えたところでこの大きな流れにはある一点において原理的に共通するものを持っている。
 常に、大事なことは自由とは何かということである。
  和漢洋の三界を自由自在に往来した「知の巨人」加藤さんの思想の源泉もここにあったのだろう。それは態度としての普遍
  主義のことである。おそらく加藤さんが「9条の会」を立ち上げた理由の一つはここにある、と私は思う。

   以上のところが私の「戦闘的ヒューマニズム」についての覚え書きだ。
  また、これは今なぜ「9条の会」なのかという問いかけに対する私の答えでもある。
     今日、「鳥の歌」を演奏してくださった塩谷 務氏は星置9条の会の前の事務局長であり、私の導師でもあった塩谷敏彦
  氏の御舎弟である。在地は小樽桜。
 いつも素敵な音楽を聴かせてくださる。感謝。
    当会の運営スタイルは講演と文化の二本立てであって、言い換えれば、政治と芸術ということになるのかもしれない。
  この二項は無関係なものではなく、また対立するものでもない。どちらも人間の生活(市民社会)にとってはなくてはならな
  いものだ。より人間的に、より人間らしく、生きるためにという意味で。

    先年亡くなられた伊藤太郎さんも塩谷敏彦さんもそういう思いで9条の会の運動を指導してこられたはずだ。思想・信条の
  違いを超えて広く、深く、楽しく連帯しようということだ。それは、諦めずに戦いを続けるということだ。
 この教えを私は「先賢余韻」として深く心に刻む。
   カタルーニの人パブロ・カザルスは、「空飛ぶ鳥たちはこう歌うのです。ピース、ピース、ピース」と言ったよ。

      2016年10月30日  
             中本 雪人 記す。  



 NO 11



忌野 清志郎

(いまわのきよしろう)

1951・4・2~2009・5・2

   享年58歳

 

  サマータイム・ブルースの歌詞

      作曲:E.COCHRANJ.CAPEHART
     オリジナル歌詞:E.COCHRAN・J.CAPEHART
     替え歌詩: 忌野清志郎

    暑い夏がそこまで来てる
    みんなが海へくり出していく
    人気のない所で泳いだら
    原子力発電所が建っていた
    さっぱりわかんねえ、何のため?
    狭い日本のサマータイム・ブルース

    熱い炎が先っちょまで出てる
    東海地震もそこまで来てる
    だけどもまだまだ増えていく
    原子力発電所が建っていく
    さっぱりわかんねえ、誰のため?

    狭い日本のサマータイム・ブルース

    寒い冬がそこまで来てる
    あんたもこのごろ抜け毛が多い (悪かったな、何だよ)
    それでもテレビは言っている
    「日本の原発は安全です」
    さっぱりわかんねえ、根拠がねえ

    これが最後のサマータイム・ブルース

    (原発という言い方も改めましょう。
    何でも縮めるのは日本人の悪い癖です
    正確に原子力発電所と呼ぼうではありませんか。
    心配は要りません)

    あくせく稼いで税金取られ
    たまのバカンス田舎へ行けば
    37
個も建っている
    原子力発電所がまだ増える
    知らねえ内に漏れていた

    あきれたもんだなサマータイム・ブルース

    電力は余ってる、
    要らねえ、もう要らねえ

   



 NO 1
  第37回学習交流会 

 特集「沖縄・琉球」


 
 ニライ・カナイ2016年・夏

「星置9条の会」
 
 

        日時 8月21日()  午後2時~4時

       場所 星置地区センター  星置2条3丁目

       参加費 (資料代) 500円

   プログラム

   1 司会   福盛田恵美子   受付 塩谷昭子

   2 呼びかけ人代表挨拶 五十嵐公人

   3 日本国憲法(第9条)朗読  中本 雪人

   4 アトラクション  オカリナ演奏 山本 正 「さとうきび畑の唄」

   5 講演「私と沖縄」 菊地慶一

   6 沖縄をめぐってのフロアトーク・進行係  垂石 豊

   7 フルート演奏 「永六輔さんを偲ぶ」    塩谷 務

    8 みんなで歌おう「憲法9条五月晴れ」 塩谷昭子  塩谷 務

   9 閉会の挨拶   吉原 宏

※関連資料添付

1「島唄」宮沢和史 作詞・作曲

2 講師のプロフィル

3 沖縄の基地状況

4 叫び声「軍属事件県民大会」玉城 愛さん挨拶全文

5 叫び声「琉球新報・201678」沖縄県会議員 渡久地 修

6 「矜持の系譜」 ウイキペディアから

7 社説「昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」 琉球新報

8 「沖縄に関する昭和天皇メッセージ」  孫崎 享

9 沖縄戦関連の昭和天皇発言

10 試論「記憶、または闇を照らす意志」  中本 雪人

11 永六輔さんを偲ぶ 「管理人の日記」から  中本 雪人

 

 


 NO 2

     
   講師のプロフィル
  菊地 慶一



    1945年、13歳のときに釧路空襲を体験する。網走管内で小学校、高等学校教師を務めた後、著作家に転身した
  網走に
1969年から住み、流氷の観察を続ける流氷観測の第一人者であり、また1973年に、流氷出版物として最初
  とされた『白いオホーツク―流氷の海の記録』を刊行する
。以来、流氷をテーマに書籍に著す
  さらに、網走歴史の会代表として、
網走刑務所オホーツク文化捕鯨など調査、研究に努め、著作にもなる。
  また、
空襲関係の著書に「紅の海ー網走空襲犠牲者の記録」「ハマナスのかげでー北海道空襲の記録」「網走空襲
  の記録」がある
。ほか、児童文学、流氷地方史などの著書がある。網走市文化賞、網走新聞文化賞、林白言文学賞、
  北海道新聞文化賞などを受賞した
。小学校の国語教科書に『流氷の世界』が掲載されている日本児童文学者協会
  
会員で、網走歴史の会代表である   ウイキペディアより

    1932年(昭和7)旭川市生まれ。釧路市で育ち北海道空襲を体験。網走管内の小学校、高等学校に勤務。網走南ケ丘高校を
   早期退職。1973年(昭和48)「白いオホーツク――流氷の海の記録」を刊行。同年児童文学「オホーツクの風にむかって」が学
   研児童文学賞に入賞。以後児童文学作品を出版する。またノンフィクションの「紅の海――網走空襲の記録」「語りつぐ北海道
   空襲」などで北海道空襲を掘り起こす。戦後開拓を記録した「黄色の川」を文芸誌に連載し2005年(平成17)「もうひとつの知床
   ――戦後開拓物語」を北海道新聞社から発刊する。また流氷関連の著作も多く「オホーツク流氷物語」「流氷――白いオホーツ
   クからの伝言」など多くを刊行し、オホーツク流氷圏の紹介に努める。
   網走市文化賞、網走新聞文化賞、林白言賞、北海道新聞文化賞などを受賞。

<著作一覧>

(流氷記録)

1973(昭48

白いオホーツク――流氷の海の記録

創映出版

1978(昭53

流氷素描

えぞまつ豆本の会

1979(昭54

流氷繪本

オホーツク書房

1982(昭57

流氷の世界 共著

岩崎書店

1987(昭62

オホーツク流氷物語

共同文化社

2000(平12

ドキュメント 流氷くる!

共同文化社

2000(平12

わたしの流氷――21世紀へ伝えたい 編著

オホーツク文化の会

2001(平13

氷岬紀行――流氷の海と58の灯台

共同文化社

2004(平16

流氷――白いオホーツク海からの伝言

響文社

 

(児童文学)

1974(昭49

ふたりの白鳥クラブ

金の星社

1977(昭52

オホーツクの歌

岩崎書店

1978(昭53

はくちょうクルル

小学館

1978(昭53

めんめのゆめ

オホーツク書房

1987(昭62

岬の花子-あるキタキツネの一生

実業之日本社

2011(平23

流氷ほたるの海

児童文学者協会北海道支部刊

 

(空襲記録)

1977(昭52

紅の海――網走空襲犠牲者の記録

楡書房

1979(昭54

ハマナスのかげで――北海道空襲の記録 編著

北書房

1990(平2)

網走空襲の記録         編著

網走空襲の会

1995(平7)

北海道空襲―1945年7月1415日の記録

北海道新聞社

2007(平19

語りつぐ北海道空襲

北海道新聞社

2010(平22

悲しみの夏語りつぐ北海道空襲補遺

北海道空襲を記録する会

2011(平23

悲しみの夏語りつぐ北海道空襲補遺

北海道空襲を記録する会

 

(ノンフィクション)

2004(平16

街にクジラがいた風景――オホーツクの捕鯨文化と庶民の暮らし

寿郎社

2005(平17

わたしの八月十五日――オホーツクの庶民が体験した敗戦の日 編著

オホーツク文化の会

2005(平17

もうひとつの知床――戦後開拓ものがたり

北海道新聞社

2005(平17

沖縄で骨を掘るいくさやまあーだうわてーうらん

オホーツク書房

2009(平21

流氷の見える丘から(エッセイ集)

オホーツク書房

2012(平24

あばしりものがたり――埋もれた歴史をひろう

オホーツク書房

 

(その他)

1982(昭57

網走叢書  網走の碑 共著

網走市教育委員会

1988(昭63

網走叢書  網走百話 共著

網走市教育委員会

1992(平4

網走叢書 続網走百話 共著

網走市教育委員会

1995(平7

網走川歴史紀行 共著

網走市教育委員会

1999(平11

網走文学散歩 共著

網走市教育委員会

1999(平11

私たちの網走川 ――115キロの記録 編著

オホーツク書房

 


  戦争の悲惨さ 体験交え訴え 網走の菊地さん 

  釧路で講演 「犠牲者の記憶後世に」
[北海道新聞 03/30 13:59]

  戦争放棄をうたう憲法第九条の堅持を呼びかけている「釧路市鳥取地域・九条の会」(三本(みもと)昭・代表世話人)
 は29日、コア鳥取で学習講演会を開き、網走市在住の文筆家で「網走歴史の会」代表の菊地慶一さん(76)が「沖縄戦
 と北海道空襲」と題して講演、戦争の悲惨さを訴えた。(斎藤与史希)

  菊地さんは旭川生まれ。教員を務める傍ら在野の郷土史家として長年活動、北海道空襲や知床の戦後開拓な
 どに関する著作がある。
 北海道空襲は太平洋戦争末期の194571415の両日、米軍機が道内各地を襲った攻撃。菊地さんのまと
 めによると釧路、根室、函館、室蘭など道内79市町村が被害に遭い、死者は推定で計1,958人に達する。子供
 時代を釧路で過ごした菊地さんは13歳で空襲を体験した。
 講演には約50人が参加。菊地さんは炎上する当時の釧路、根室市街の写真などをスライドで示しながら「釧路
 では、死者192人のうち5歳から15歳までの子供が約4割の76人だった」と指摘。「戦争は子供、老人、女性
 など『銃後』の弱者に大きな犠牲を強いる」と話した。
 沖縄戦(453?6月)にも言及。沖縄では約4,000もの戦争犠牲者の遺骨が未収骨だといい、沖縄で収骨経験
 がある菊地さんは「国家がいわば『棄骨(きこつ)』をしてきた結果だ」と日本政府を批判した。
 「泣き声がうるさい」と米兵に脅され、乳飲み子を自分の乳房で窒息死させた母親の話などを紹介しながら、
 「人は戦争で一度死に、人々の記憶から消えることで二度目の死を迎える。戦争犠牲者を二度殺してはいけない」
 と話し、「一人一人の記録を語り伝えていくことが私たちの仕事だ」と訴えた。
 
 
     
     
     

   

 NO 3

      「島唄」  宮沢和史 作詞・作曲

    でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
   (1945年春、でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された。)

    いごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
   (でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている。)

    繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう
   (多数の民間人が繰り返し犠牲となり、人々の哀しみは、島中に波のように広がった。)

    ウージの森で あなたと出会い
   (サトウキビ畑で、愛するあなたと出会った。)

    ウージの下で 千代にさよなら
   (サトウキビ畑の下の洞窟で、愛するあなたと永遠の別れとなった。)

    島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ
   (島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 “ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

    島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙
   (島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

    でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
   (でいごの花が散る頃、沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、平穏が訪れた。)

     ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
   (平和な時代のささやかな幸せは、波間の泡の様に、はかなく消えてしまった。)  

    ウージの森で 歌った友よ
   (サトウキビ畑で、一緒に歌を歌った友よ。)

    ウージの下で 八千代に別れ
   (サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)  

    島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
   (島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 “ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

    島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
   (島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

    海よ 宇宙よ 神よ 命よ
   (海よ 宇宙よ 神よ 命よ 万物に乞い願う。)

    のまま永遠に夕凪を
   (このまま永遠に穏やかな平和が続いてほしい。)

    島唄は 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
   (島唄は、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 “ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

    島唄は 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の涙(なだば)
   (島唄は、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

    島唄は 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
   (島唄は、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 “ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

    島唄は 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の愛を
   (島唄は、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

 

 



 
 NO 4
         沖縄に米軍基地が在るのではない、

     米軍基地の中に沖縄が在るのだ。

 日米安全保障条約に基づく在日米軍基地の約75%が日本のわずか0.6%の沖縄に集中している。沖縄では1972年
 の施政権返還以降も基地の重圧にあえいできた。


   
   
   
 



 NO 5
  
  

     叫び声

<軍属事件県民大会>
玉城愛さんあいさつ(全文)

2016年6月20日

 <元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会>
      玉城愛さんあいさつ(全文)

   オール沖縄会議共同代表の玉城愛さん(21)のスピーチ全文は次の通り。

   被害に遭われた女性へ。絶対に忘れないでください。あなたのことを思い、多くの県民が涙し、怒り、悲しみ、
  言葉にならない重くのしかかるものを抱いていることを絶対に忘れないでください。
  あなたと面識のない私が発言することによって、あなたやあなたがこれまで大切にされてきた人々を傷つけていないか
  と日々葛藤しながら、しかし黙りたくない。そういう思いを持っています。どうぞお許しください。あなたとあなたの
  ご家族、あなたの大切な人々に平安と慰めが永遠にありますように、私も祈り続けます。

   安倍晋三さん。日本本土にお住まいのみなさん。今回の事件の「第二の加害者」は、あなたたちです。しっかり、沖
  縄に向き合っていただけませんか。いつまで私たち沖縄県民は、ばかにされるのでしょうか。パトカーを増やして護身
  術を学べば、私たちの命は安全になるのか。ばかにしないでください。
  軍隊の本質は人間の命を奪うことだと、大学で学びました。再発防止や綱紀粛正などという使い古された幼稚で安易な
  提案は意味を持たず、軍隊の本質から目をそらす貧相なもので、何の意味もありません。
   バラク・オバマさん。アメリカから日本を解放してください。そうでなければ、沖縄に自由とか民主主義が存在しな
  いのです。私たちは奴隷ではない。あなたや米国市民と同じ人間です。オバマさん、米国に住む市民のみなさん、被害
  者とウチナーンチュ(沖縄の人)に真剣に向き合い、謝ってください。
   自分の国が一番と誇るということは結構なのですが、人間の命の価値が分からない国、人殺しの国と言われているこ
  とを、ご存じですか。軍隊や戦争に対する本質的な部分を、アメリカが自らアメリカに住む市民の一人として問い直す
  べきだと、私は思います。
   会場にお集まりのみなさん。幸せに生きるって何なのでしょうか。一人一人が大切にされる社会とは、どんな形をし
  ているのでしょうか。大切な人が隣にいる幸せ、人間の命こそ宝なのだという沖縄の精神、私はウチナーンチュである
  ことに誇りを持っています。

   私自身は、どんな沖縄で生きていきたいのか、私が守るべき、私が生きる意味を考えるということは何なのか、日々
  重くのしかかるものを抱えながら現在生きています。
  私の幸せな生活は、県民一人一人の幸せにつながる、県民みんなの幸せが私の幸せである沖縄の社会。私は、家族や私
  のことを大切にしてくれる方たちと一緒に今生きてはいるのですが、全く幸せではありません。
  同じ世代の女性の命が奪われる。もしかしたら、私だったかもしれない。私の友人だったかもしれない。信頼している
  社会に裏切られる。何かわからないものが私をつぶそうとしている感覚は、絶対に忘れません。
  生きる尊厳と生きる時間が、軍隊によって否定される。命を奪うことが正当化される。こんなばかばかしい社会を、誰
  が作ったの。このような問いをもって日々を過ごし、深く考えれば考えるほど、私に責任がある、私が当事者だという
  思いが、日に日に増していきます。彼女が奪われた生きる時間の分、私たちはウチナーンチュとして、一人の市民とし
  て、誇り高く責任を持って生きていきませんか。もう絶対に繰り返さない。沖縄から人間の生きる時間、人間の生きる
  時間の価値、命には深くて誇るべき価値があるのだという沖縄の精神を、声高々と上げていきましょう。

 

 


 
 NO 6

 <社説>昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ

     2014910 06:02    琉球新報

沖縄の運命を変えた史実は、十分解明されなかった。

   宮内庁は昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ
  「天皇メッセージ」を日本の公式記録として記述した。
   しかし、沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や、戦争に至る
   経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「見つからなかった」との理由で、盛り込まれなかった。編さんに24
   年かけたにしては物足りず、昭和史の空白は埋められなかった。
    昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体
   護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」
   との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖
   縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
    二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」
   は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄
   の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
    三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25
   年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が
   実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設
   の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深
   く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
    私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を
   希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に
   関する限り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えら
   れない。

 


 
 NO 7

    沖縄戦関連の昭和天皇発言

        1【「近衛上奏文」 1945214日】

   「戦局ノ見透シニツキ考フルニ、最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリト存ゼラル。以下前提ノ下ニ申上グ。
  最悪ナル事態ニ立至ルコトハ我国体ノ一大瑕瑾タルベキモ、英米ノ輿論ハ今日迄ノ所未ダ国体ノ変更ト迄ハ進ミ居ラズ(勿論一
  部ニハ過激論アリ。又、将来如何ニ変化スルヤハ測断シ難シ)。随ッテ最悪ナル事態丈ナンバ国体上ハサマデ憂フル要ナシト
  存ズ。
  国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ。
  (中略)
   戦局ノ前途ニツキ何等力一樓デモ打開ノ埋アリト云フナラバ格別ナレド、最悪ノ事態必至ノ前提ノ下ニ論ズレバ、勝利ノ見込
  ナキ戦争ヲ之以上継続スルコトハ全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト云フベク、従ッテ国体護持ノ立場ヨリスレバ、一日モ速ニ戦争終
  結ノ方途ヲ講ズベキモノナリト確信ス」
  (『木戸幸一関係文書』)

         2
1945214日】

   「陛下 我国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。
  その点はどう思うか。

   近衛 軍部は国民の戦意を昂揚させるために、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー
  氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我皇室に対しては十分な敬意と認識
  とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませ
  ぬ。この点が、戦争終結の策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。

   陛下 先ほどの語に軍部の粛正が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。
   近衛 一つの思想がございます。これを目標と致します。
   陛下 人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。
   近衛 それは、陛下の御考え……
   陛下 近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。
   近衛 従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者も
   ありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れ
   がございます。これらを起用すれば当然摩擦を増大いたします。
   考えようによっては、何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし
   敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏
   らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の建て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。
   陛下 もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う。
   近衛 そういう戦果があがれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはなら
   ず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう」
    (藤田尚徳『侍従長の拭想』)

    3
1945214日】

   「十四日、……三時、近衛公と吉田茂邸にて会見、公は今朝参内、重臣として単独拝謁し、意見を言上し、正午首相官邸
  にて重臣会議に出席、その帰途なり。上奏の内容は公自筆のものにして、主としてソヴィエットの欧洲に於ける行き方を述べ、
  我国に対してソ聯がとることあるべき方針を考へ、未だ国力を出し尽さゞる前に、外交によりて戦争を終結せしむべしとの大
  意にて、終始赤化の脅威を説きたるものなり。是に対し御上より、米国は我皇室を抹殺せんと云ひ居る由なるも其の点如何
  との御下問あり、公はグルー及び米国首脳部の考へ方を見るに、其処迄は行かぬ様思ひますと言上、陛下は、梅津は米国
  が皇室抹殺論をゆるめざるを以て、徹底抗戦すべしと云ひ居るも、自分も其の点には疑問を持つて居ると仰せあり。又栴津
  及び海軍は、今度は台湾に敵を誘導し得ればたゝき得ると言つて居るし、その上で外交手段に訴へてもいゝと思ふと仰せあ
  りたりと」
     (細川護貞『細川日記』)

     4
19452月】

   「近衛は天皇を訪問し、『和平』を説いた。近衛の『和平』論は木戸よりもはっきりと降服論だったのであるが、天皇の近衛に
  対する返答は、沖縄の戦勝が得られたらそれを機会に和平を考えてもよいということだった。
  近衛 沖縄で勝てるという目算がありますか。
  天皇 統帥部は今度こそ大丈夫だといっている。
  近衛 彼らのいうことで今まで一度でも当ったことがありますか。
  天皇 今度は確信があるようだ」
    (戒能通孝「群衆-日本の現実」-『戒能通孝著作集1』)

    戦後

    5
【沖縄戦の敗因】

   詳しい事は作戦記録に譲るが、私はこれが最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまた、やむを得ぬと思った。
  沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ、ただいちるの望みは、「ビルマ」作戦と呼応して、雲南をたたけば、英米に対し
  て、相当打撃を与え得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬといって反対した。
   (
共同・記者会見から)

     6
【沖縄占領】

   「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」「米軍の軍事占領は、日本に主権を残したままでの
  長期租借-二十五年ないし五十年あるいはそれ以上-の擬制にもとづくべきである」(479GHQ政治顧問シーボルトの「マ
  ッカーサー元帥のための覚書」。宮内庁御用掛の寺崎英成が天皇のメッセージとして伝えたもの)

   〈資料・1〉対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトから国務長官マーシャルあての書簡(1947922日付)

    主題 琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解
     国務長官殿 在ワシントン

    拝啓
  天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする19479
  20日付のマッカーサー元帥あての自明の覚書のコピーを同封する光栄を有します。

   米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいてい
  る希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によ
  れば、日本国民はそれによって米国が下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということ
  です。
                                 敬具
    合衆国対日政治顧問 代表部顧問
                  W・J・シーボルト
            
東京  1947922日 
                                                              

   〈資料・2〉前記書簡に添付された総司令部外交部作成の「マッカーサー元帥のための覚書」(1947920日)

  「琉球諸島の